じじぃの「人の死にざま_1602_大田・正一(海軍軍人)」

KAMIKAZE 桜花 BAKA BOMB 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uSEzyWua4a0
一式陸攻から切り離される桜花

大田正一

大田正一 ウィキペディアWikipedia)より
大田正一(おおた しょういち、1912年(大正元年)8月23日 - 1994年(平成6年)12月7日)は、山口県熊毛郡室津村(現・上関町)出身の大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉。特攻兵器桜花の発案者として知られる。
【戦後】
米国テレビ番組『History Undercover』において大田の戦後追跡が行われた。取材によると、大田は基地から離れた金華山沖の洋上に着水し漁船に救助され生還。行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて別人を装い新しい戸籍を作成。「青木薫」を名乗り各地を転々としつつ、家庭を持ち2人の子供を儲けた。1994年12月7日、京都市左京区の日本バプテスト病院にてガンで死亡。
戦後、大田の桜花提案は上層部がボトムアップの形で特攻を進めるために作った隠れ蓑だったのではないかという陰謀論があった。しかしながら、大田の奔走、採用の過程など事実関係が明らかになるにつれて、その根拠は既になくなっている。大田を追跡調査した作家秦郁彦は、大田の桜花発案の背後に誰かいると思っていたが、大田探しの過程で彼に対するイメージは少しづつ変わっていき、桜花の着想は大田のオリジナルだと思うようになったという。作家柳田邦男も「大田少尉は結局、時流に乗った目立ちたがり屋の発明狂でしかなかったのかも知れない」と結んでいる。

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昭和史の謎を追う 上』 秦郁彦/著 文藝春秋 1999年発行
「桜花」特攻――大田正一の謎 (一部抜粋しています)
大田正一中尉は数ある特攻兵器のなかで、もっとも非情な兵器として定評のあった「桜花」の発案者として有名で、基地では別格扱いの存在だった。パイロットでなかったため、本人の熱望にもかかわらず出撃の機会を与えられず終戦を迎えたのだが、自決の恐れありと周囲はそれとなく監視の目を注いでいるところだった。
異変を知って見張塔にかけあがった飛行長の岡本晴年少佐は双眼鏡で大田の機影を追ったが、ゼロ戦はふらつくような動きを見せながら、東北地方の洋上に消えていった。
大田の居室はきちんと整頓され、机の上には「東方洋上に去る」とスミで書いた遺書が残っていたので覚悟の飛行とわかったが、基地の空気は概して冷ややかだったようである。「馬鹿な奴だ」と吐き捨てるように言い放った士官もいたという。
「桜花」とともに死んだいわゆる神雷部隊の特攻隊員は722人に達したが、戦果は駆逐艦1隻撃沈、5隻撃破にしかすぎなかったおとが、のちの米軍の記録で明らかとなる。無惨としか言いようのない人命と鉄量の交換比であった。やり場のない怒りが「桜花」の生みの親とされていた大田へ向かったとしても、無理からぬものがあったろう。
だが、飛び去った大田機の目撃者のなかには、太田を特攻隊員とはまったく別の視点から眺めていた人もいた。渋川侃二――航空技術廠の実習生として神ノ池に派遣されていた東京工大航空科の学生である。
渋川が基地の食堂で「君話して行きませんか」と声をかけられたのは、終戦翌日の夕方だったという。見るとチョビひげを生やし、俳優の藤田進に似た大田中尉と名のった。初対面だったがすでに評判は聞いていたので、誘いに応じて坐ると、「まあ一杯」と盃をさし、従兵を呼んでカニ缶を運ばせた。
「軍令部も航空本部にもあちこち足を運んだが、おれのようなスぺ公のいうことなどまじめに聞いてくれなかった。東大の小川さんだけです。真剣に聞いてくれたのは」「こんな形でやるなら真先にワシを行かせてくれと上申したのにダメでした」と「桜花」をめぐるグチめいた話題が主で、延々2時間近くつづいたが、表情は晴れやかでニコニコと楽しそうであった。
「故郷にはもう7年も帰っておらん。女房に最後に会ったのはいつだったかなあ」と語った太田は語調を変えて、「これからは君ら若い者の時代だ。頑張ってもらわにゃ」と励ました。航空工学専攻の渋川が「もう飛行機はだめでしょう」と反問すると、太田はややむきになって「何をやったって食っていけますよ。生きることだよ。生きることはいいことだぜ。君」と肩をたたき席を立った。
渋川がもういちど食堂で大田中尉を見かけたのは18日の朝である。近くの食堂で、太田は学徒出身の士官2人とゼロ戦の操縦法を語りあっていた。
「私は偵察員出身でも多少は操縦もできるが、ゼロ戦は無理です」としゃべる大田の声、フラップやレバーの操作についての細やかなやりとりが耳に入った。飛び去っていく太田のゼロ戦を渋川が食堂の窓から目撃したのは、それから数時間後のことである。
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1994年11月、知友の御田重宝氏(元中国新聞記者)より、大阪に居住する大屋隆司氏から実父の大田正一が京都のバプテスト病院にガンで入院中と連絡してきたと知らされた。大屋氏は太田が登場する御田氏の著作を読んでいたので、連絡したところであった。
御田氏と私はすぐに京都へかけつけて会いたいと申し入れたが、すでに太田は意識がなく、見合わせている12月7日に亡くなった。翌年6月、私は大屋氏と大田未亡人を訪ね、氷上霊園に眠る大田正一の墓参もした。