じじぃの「人の生きざま_560_池田・武邦(建築家)」

Yamato Battleship 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GGy5ApynvBw
神風特攻隊員たちの遺書 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_QOXodCXpTs
池田武邦 ウィキペディアWikipedia) より
池田 武邦(いけだ たけくに、1924年1月14日 - )は、日本の建築家、実業家である。元日本設計代表取締役社長。株式会社日本設計名誉会長、株式会社日本設計池田研究室代表、ハウステンボス株式会社代表取締役会長、環境NPO「聚」理事長。日本の高層建築の黎明に携わった。

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『私の「戦後70年談話」』 岩波書店編集部/編 岩波書店 2015年発行
自然への感性を失ってはならない 池田武邦 (一部抜粋しています)
1945年の4月7日、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の第四分隊長兼測的長として戦艦「大和」とともに沖縄の特攻作戦に出撃しました。米軍の空襲を受けて午後2時5分に「矢矧」は沈没。海へと投げ出されました。それから18分後には、大和も沈没しました。
5〜6時間海を漂いました。もう絶対に助からないと思っていたのですが、日が沈んだころ、仲間たちに救助され、佐世保に帰りました。機密保持のため、しばらく隔離されていました。着る服もなく、水兵さんの服を着て、それは惨めなものでした。
それからしばらくして潜水学校の教官という辞令が来て、呉のちょっと先にある大竹の潜水学校に赴任しました。潜水艦に乗った経験はないのに、何で潜水学校の教官なんて、と思ったら、予備学生を回天などの人間魚雷に乗せて特攻を行う要員を養成するための教官でした。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で日本の軍艦はどんどん沈んで、日本には艦隊はなく、もはや特攻しかない状況でした。けれども、そのことは一切、一般国民には知らせていないから、予備学生たちはそうとは知らずに溌剌と入校してきました。幸い、特攻に行く前に終戦になり、全員助かったのです。
戦後しばらくは復員官になって、外地に残っていた兵隊さんたちを内地に運ぶ復員業務に従事していましたが、親父が現れて、「元軍人でも大学への道が開けたから、大学を受けてみろ」と言われ、東大を受験。幸い合格し、建築学科に進みました。元海軍士官として、国を守れなかったことは本当に申し訳なく、戦後は日本を再建するために全力をあげようと思って、建築家の道を選んだのです。
日本最初の超高層ビルである霞が関ビルディングを手がけた時には、グループダイナミクスという手法を活用しました。もともとカミカゼ特攻隊に手を焼いていたアメリカが始めたときいています。特攻をいかに防ぐか。アメリカはそのために、海軍の専門家以外の、物理学者とか画家とか、全く専門以外の人たちでいろいろなアイデアを出し合い、しかも、どんなばかばかしいアイデアでも否定しないディスカッションを行いました。その結果、弾幕を張ればいいという発想にたどり着いて、日本の海軍をやっつけたわけです。「3人寄れば文殊の知恵」といいますが、クリエイティブな発想というのは、1人の天才ではなくて、凡人が集まって、グループでやれば絶対新しいアイデアが出るという考えにもとづくものです。
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いまは技術が発達したから、環境を簡単にコントロールできてしまうけれども、そればかりやっていると、特に育ち盛りのこどもたちには問題があるんですね。だからやはり、いま、どういう環境に自分の身を置くのがいいのかを考えないといけない。文明が発達することは大変ありがたいけれども、うっかりするとそれに甘んじて精神が弱ってしまう。よほど近代技術文明に対して批判する目を持っていないと……。
いまの日本は、結構いい線いっていると思います。昔、『自転車泥棒』というイタリア映画がありましたけれども、敗戦直後の日本も似たような状況で、自転車をちょっと置くと、鍵をかけていても盗まれてしまう時代がありました。けれども、経済がここまできて、そういうことはなくなった。また、戦後は道路にゴミが平気で捨てられていて、ひどいものでしたが、いまはどこを歩いたってない。「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますけれども、衣食足りない時代はやはりそうなるんですよ。