じじぃの「人の死にざま_1578_運慶(鎌倉時代の仏師)」

運慶作 「仁王像」

運慶 ウィキペディアWikipedia)より
運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年(1224))は、平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。
運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。以下は国宝・重要文化財指定名称に運慶の関与が明記され、運慶ないし運慶工房の真作として学界にほぼ異論のないものである。

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『コミュ障 動物性を失った人類 正しく理解し能力を引き出す』 正高信男/著 ブルーバックス 2015年発行
木を見て森を見ない――パーツにこだわる世界認識 (一部抜粋しています)
文庫本に収まっている、わずか30ページあまりの『夢十夜』という作品は当初は、明治41年の7月から8月にかけて朝日新聞に連載された。その2年後に、『四篇』という短篇集として単行本化されている。
表題どおり、十夜にわたって一人称の「自分」が見たとする夢の記載によって構成れている。第一夜から第三夜、までいずれも、「こんな夢を見た」という文で始まることで、よく知られている。その第六夜が、鎌倉時代の仏師の運慶が明治の日本にタイムスリップして登場する話で、この筋もかなりよく知られているから改めて記すまでもない、という気もするのだけれど、短いのであえて全文を引用してみよう。
 運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分よりも先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。
 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、其幹が斜めに山門の甍(いらか)を隠して、遠い青空迄伸びて居る。松の緑と朱塗の門が互いに照り合って美事に見える。其の上松の位地が好い。門の左の端を目障にならないように、斜に切って行って、上になる程幅を広く屋根迄突出しているのが何となく古風である。鎌倉時代とも思はれる。
 ところが見て居るものは、みんな自分と同じく明治の人間である。其の中でも車夫が一番多い。辻待をして退屈だから立っているに相違ない。
「大きなもんだなあ」と云っている。
「人間を拵(こしら)えるよりも余つ程骨が折れるだらう」とも云っている。
 そうかと思うと、「へえ仁王だね。今でも仁王を彫るのかね。へえそうかね。私や又仁王はみんな古いのばかりかと思ってた」と云った男がある。
「どうも強そうですね。なんだってえますぜ。昔から誰が強いって仁王程強い人あ無いって云いますぜ。何でも日本武尊よりも強いんだってえからね」と話しかけた男もある。此の男は尻を端折(はしょ)って、帽子を被らずにいた。余程無教育な男と見える。
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 しかし運慶の方では不思議とも奇体とも頓と感じ得ない様子で一生懸命に彫っている。仰向いて此の態度を眺めて居た一人の若い男が、自分の方を振り向いて、
 「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我れとあるのみと云う態度だ。天晴れだ」と云って誉め出した。
 自分は此の言葉を面白いと思った。それで一寸若い男の方を見ると、若い男は、すかさず、
 「あの鑿と槌の使い方を見給へ。大自在の妙境に達している」と云った。
 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削って、熱い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面が忽ち浮き上がって来た。其の刀の入れ方が如何にも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟(さしはさ)んで居らんように見えた。
「よくああ無造作に鑿を使って、思う様な眉や鼻が出来るものだな」と自分はあんまり感心したから独言の様に言った。するとさっきの若い男が、
 「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじやない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを鑿と槌の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違う筈はない」と云った。
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おそらく運慶をレオナルド・ダ・ヴィンチに、彫刻という行為を解剖に置き換えてみれば、私がこの作品から独断と偏見にもとづいてくみとろうとする寓意がおわかりいただけるのではないだろうか。また仁王の眉や鼻は、得られた科学的知見、あるいは科学的法則性ないし科学的規則性にあたる。
レオナルドやアインシュタインにとって、それらは、「さっきの若い男」がいうように「作るんじゃない」「埋っているのを掘り出す」のである。そもそも人体であれ宇宙であれ、レオナルドやアインシュタインが作ったわけであるはずもない。2人は、それを構成する秩序をつまびらかにした、すなわち掘り出したのだった。