じじぃの「人の死にざま_1571_李・光洙(朝鮮の文学者)」

池上彰緊急スペシャル 知っているようでよく知らない韓国のナゾ!150604 A 動画 dailymotion
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上海に亡命していた頃の李光洙

三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 IV 章 注・資料
上海臨時政府の機関紙は最初『我等の消息』という名で謄写版で出されていたが、1919年8月21日より『独立』が活版で発行され、その後1919年10月15日付けの22号より『独立新聞』と改称し、さらに1924年1月より題名がハングルで表記された。初期の編集の中心人物は李光洙と朱耀翰で、特に李光洙は記名・無記名の論説、随筆、詩を多数執筆した。彼はこの他に臨時政府の事業として資料編纂委員会の仕事も担当していた。
http://www.han-lab.gr.jp/~cham/ajiwau/chap4/chap4note.html
李光洙――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』 波田野節子さん 西日本新聞
●近代の映し鏡のように
韓国併合前後に日本に留学し、独立運動への挫折と対日協力の末、朝鮮戦争下で北朝鮮に連行され消息を絶った作家・李光洙(イグァンス)(1892〜1950)。
近代文学の祖」と評されながら「親日派」の代表格として、今なお称賛と断罪の両極で揺れる文学者の生涯をたどった、初めての一般書だ。
「人間を書かないことには、彼の対日協力を理解することができない。彼がまとっていた空気をとらえたかった」
波田野さんは、新潟県立大名誉教授。80年代から李光洙研究を始め、2005年には代表作「無情」平凡社)を翻訳出版した。「彼の文章には当時の時代精神が色濃く反映されていて、近代化に疾走していた日本の姿も重なって見えてくる」と言い、「日本語を通して文学を学んだため、文章の中に日本語感覚が染みついている」とも読み解く。「近代化こそ朝鮮独立の道」と信じた開化派の系譜につながる留学生として、李もまた強烈な使命感を持ち、作品群はきわめて啓蒙的だ。
http://www.nishinippon.co.jp/nlp/book_auther/article/189010
池上彰緊急スペシャル 「日韓基本条約から50年、池上彰が韓国のナゾを徹底解説」  2015年6月5日 フジテレビ
【解説】池上彰 【進行】高島彩 【ゲスト】柴田理恵、千秋、中村アン平泉成宮下純一山里亮太
知ってるようで知らない韓国のナゾ。韓国が反日である理由について、池上彰が解説。
韓国憲法の前文には、三・一運動の時にできた上海の「大韓民国臨時政府」の記述がある。しかし、韓国が日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスやアメリカが韓国臨時政府を承認したことはない。
独立戦争をして日本から独立したという「建国神話」が反日の源になっている。
植民地時代に日本帝国に協力した人物の資産を没収するという「親日法」は事後法で近代・法治国家としてありえない。
反日感情の背景には、幼い子供に独島(日本名竹島)を我が国の領土と言わせる異常な教育を紹介。
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2015/150601-170.html
李光洙 ウィキペディアWikipedia)より
李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は朝鮮の文学者、思想家である。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。号は「春園」(チュンウォン)。創氏改名時の日本名は香山光郎。
【評価】
光洙は元来、当時の西欧由来の『近代』思想に基づく実力養成論者であったが、それとても弾圧し独立の希望を奪い親日路線に走らせたのは大日本帝国植民地当局の圧力であり、李が親日路線に転じてまでも執筆を続けたのは朝鮮民族の力量の養成のためには一旦は(朝鮮民族よりは近代化において勝っており、国力も高い)大日本帝国の意を迎えるよりないと考えたからだとされる。彼個人の不明さよりも大日本帝國の植民地支配という構造的暴力・抑圧こそが本質的問題なのだとする意見がある。
一方で光洙の『近代西欧』思想に基づく民族改良主義による実力養成の論理自体が朝鮮民族の劣位性を説き、大日本帝国の植民地支配と妥協しこれを容認する論理であり、親日に転落する可能性を秘めたものでその点において非難を免れないとの主張もある。
いずれにしても、独立後の韓国では思想信条の自由が保障されていなかったために、独裁体制の犠牲になったといえる。

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李光洙――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印』 波田野節子/著 中央公論新社 2015年発行
『無情』の時代――名声獲得と三・一独立運動 (一部抜粋しています)
1919年2月初めに上海に着いた李光洙は、港で友人の張徳秀と出くわした。日本に向かう彼に所持金を全部与え、李光洙は見送りの来ていた彼の仲間の家にそのまま転がり込んで、呂運亨ら政治青年たちが上海で結成していた新韓青年党の活動に加わった。彼らはパリ講和会議に代表として金奎植を派遣し、上海に臨時政府をつくる準備として本国、シベリア、日本に仲間を送りこんでいた。
2月20日頃、3月3日に運動を起こすという知らせとともに崔南善の起草した独立宣言書が朝鮮から届いた(三・一独立運動は当初は3日の予定だった)。青年党員たちは霞飛路に事務所を借り、タイプライターをおいてその日を待った。5日頃、3月1日に京城独立運動が起きたという情報が新聞に載ると、李光洙たちは海外の同胞団体にこれを知らせ、米大統領と英・仏首相に、朝鮮が独立を宣言して善国民が立ち上がったという内容の長文の英文電報を送った。七百数十元という法外な料金を払って電報局を出たときは爽快だったと李光洙は回想している。
まもなく朝鮮の消息が国境を越えて伝わってきた。下着や靴の底にひそませてきたと思われるしわくちゃの紙に細かい字で書き込まれているのは、どこで何人が独立万歳を叫び、何人がどのように日本の警察と軍隊に殺されたかというような情報だった。李光洙たちの仕事は、それらを中国語と英語の記事にして新聞社と通信社に提供することだった。
イギリスとアメリカの新聞は情報の確実さや数字の正確さを要求して、なかなか記事にしてくれず、新韓青年党では、英字紙『チャイナプレス』の記者の朝鮮行きの費用を負担した。3週間後に戻った記者はカナダ人宣教医師フランク・ウィリアム・スコフィールドと会ってさまざまな情報と写真を入手してきており、こうして水原の村人たちを教会に閉じこめて焼殺した提岩里事件をはじめとする虐殺が伝えられることになった。
やがて新韓青年党の呼びかけに応え、海外にいる独立運動の指導者たちが上海に集まる。4月11日、新韓青年党がこの日のために準備しておいたフランス租界の金神父路にある西洋住宅で、大韓民国臨時政府の樹立が宣言され、国務総理に李承晩、内務総長(内相)に安菖浩がともに不在のまま選出された。
李光洙は新韓青年党を離れ、政府機関紙『独立新聞』創刊の準備に入った。役割を終えた新韓青年党は1922年に解体する。
臨時政府の内務総長に選出された安菖浩は、5月末に上海に着くと旅の疲れで紅十字病院に入院した。自分と因縁が深いこの人物を、李光洙はすぐに見舞いに行った。
10年以上前、1907年に安菖浩が亡命先のアメリカから韓国に戻る途中で日本に立ち寄ったとき、中学編入の準備をしていた李光洙は彼の演説を聞いていた。そのあと韓国に戻った安菖浩は新民会を組織し、平壌に大成学校をつくって校長となる。そして、そこで彼の演説を聞いて感動した李昇薫が定州に五山学校を建て、中学を卒業する李光洙を教員として招聘したのである。李光洙が五山学校に赴任したとき、安菖浩はすでにアメリカに亡命していて会えなかった。いま上海で、李光洙はようやく安菖浩と知り合ったのである。
安菖浩は臨時政府に入ると、まず臨時政府の乱立を回避させるための内閣改造を行った。彼は主だったメンバーを上海に召集し、李承晩を大統領、李東輝を国務総理に選出させ、自分は国務総理代理になった。そして霞飛路の事務所に通いながら、長期的な独立計画である「独立運動方略」を作成し、臨時資料編纂会を立ち上げて民族運動の資料を編纂し、政府の機関紙として『独立新聞』を創刊した。
李光洙は彼を手伝って「独立運動方略」を作成し、資料編纂会の主任として独立運動の歴史を整理し、『独立新聞』の社長に就任した。この頃東京の一高を中退して上海に駆けつけた朱耀翰が、一緒に『独立新聞』の仕事に携わった。
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1920年後半になると三・一独立運動の熱気も冷めてくる。海外からの送金が減って、経費不足のために臨時資料編纂会は解散し、『独立新聞』も発行回数を縮小する状況に追いこまれた。だが臨時政府のなかでは主戦論者と非戦論者が対立し、社会主義という世界思潮も入り込んで、意見が分裂し内部抗争が続いていた。
上海にいた亡命青年たちはこんな状態に失望し、中国で学校に入ったり欧米に留学する者が増えていく。朱耀翰もこの頃上海にある滬江大学に入学している。李光洙も勉学を再開したかったが、学費のあてがなかった。この頃、生活に困り、イギリスの商館に面接に行って襟カラーが汚れていると言って断られたこともあったという。健康も悪化していた。李光洙は、興士団の思想を海外ではなく朝鮮で広めたいと考えるようになっていた。