じじぃの「人の生きざま_525_蛭子・能収(漫画家)」

さんまのまんま 蛭子能収 蛭子一郎 2015年5月10日 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=uyCuJQ57Qto
蛭子能収さん親子

蛭子能収 ウィキペディアWikipedia)より
蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、タレント、エッセイスト、ギャンブラー、俳優、映画監督。ファザーズコーポレーション所属。長崎市立長崎商業高等学校卒業。著作は『地獄に堕ちた教師ども』、『私はバカになりたい』、『家族天国』、『ひとりぼっちを笑うな』など多数。

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『けっこう凄い人』 泉麻人/著 新潮文庫 1992年発行
競艇と商業美術 蛭子能収★漫画家 (一部抜粋しています)
エビスさん自身、かなり独特の雰囲気をもった人である。
180センチ近い巨体でヌーボーと現われ、何か一言発信するたびにペコペコと頭を下げながら右手で故・林家三平師匠の如くポリポリと額のあたりを掻(か)。極度の照れ性である。ということはひと目で見てわかる。巨体に似合わず声が妙に高い。ハッキリ言って美声である。
「いやぁ実は、小学校の頃、少年合唱団に入ってまして、長崎の戸町というとこのこの小学校なんですけどね。ウィーン少年合唱団に対抗して戸町少年合唱団っていうの、音楽の先生がつくりまして。わたし、けっこう唄(うた)とかうまかった、って自分で言うのも何ですけど、それに選ばれましてね、”荒城の月”とか公会堂でやりましてね」
と言って彼は照れくさそうに頭を掻いた。
音楽と図工は5、体育は2。
とにかく典型的なアーティスト肌の少年だったようである。
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――絵の道に本格的に入るきっかけは?
「高校の部活動で演劇部か美術部か迷ってましてね。兄貴に相談したら、そりぁ美術部しかないんじゃないの、って言われましてね。実は兄貴ってのが絵心のある人で、中学卒業して船乗りになっちゃったんですけど……」
話は前後するが、蛭子家は父親が近海漁業の船師、そして蛭子氏の兄も父を追うような形で海に出る仕事を選んだ。
高校の美術部で活動するうちに彼は本格的な商業デザイナーの道を夢みるようになる。当時は横尾忠則の出現で、商業美術の世界が脚光を浴びはじめた時代である。しかし、長崎にはそういった”横尾的”な仕事のできる環境はなく、卒業後、牧師の勧めで市内の看板屋に就職することになる。
「商店の大売出しの看板が専門で。それも看板を組み立てて、下地の色を塗って、あとは店主が文字書くのを待って取りつけに行くっていう、ほとんど”絵”以外の部分の大工仕事ばっかでねぇ。看板取りつけるには、電気の配線直したり、高いハシゴ昇ってトビ職まがいのことさせられたり。もうすぐに辞めたくなりましたね。だけど、店主と奥さんと僕と3人でやっているようなファミリーなムードの店ですからね。つい辞めるに辞められなくて、仕事ってのは、やりはじめるのは簡単だけど辞めるのは難しいって、ほんとそのとき思いました」
――結局、どうやって辞めるわけですか?
「はい。ちょうど入って4年目くらいに万国博がありまして。その頃、田舎の方の会社じゃ”万国博行く”っていうとまとまった休みをくれる風潮があったんですよ。それで、決死の思いで店主に”ちょっと万博行きたいんで”って休暇をもらいまして、万博には行かずに東京に出てきたわけです。途中、旅館から店の主に手紙を書きましてね。”嘘ついて申し訳ありません、私はどうしても東京で絵を……”と」
東京に出てからも最初の職はやはり看板屋。渋谷にある西部グループ系の看板を一手に請け負っている会社で、苗場や万座のスキー場の看板描きからプリンスホテルのルームナンバーの貼り付けまでやった。
そして、看板屋の次はチリ紙交換、そしてダスキンのセールスと続く。
ダスキン石神井の営業所で、練馬や板橋の方をまわってました。ダスキンに勤めたのは、まぁ大っきい会社で、社長と顔を合わせたちすることもないだろうし、長崎の看板屋みたく家族的ムードにしばられることもないだろうし、これならいつでも辞められるってことでやりはじめたんですよ」
ダスキン時代、こつこつと描いていた漫画が「ガロ」に掲載されるようになり、7年目に退社していよいよ蛭子能収は専業の漫画家の道を歩みはじめる。
蛭子の作品には、サラリーマンがよく登場する。そのサラリーマンたちは、オフィスや満員の地下鉄の中で、あるいは真夏の炎天下の路上で汗をタラタラ流しながら悲痛な面持ちをしていることが多い。
「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ。だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね。描いたりするのがね。弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」
だからと言って蛭子の先品は、”弱きが強きをくじく”という構造に仕上がっているわけではない。むしろ、弱い者やダメな者は最後までそのままいじめられてむなしく終わってしまうというパターンの方が多い。しかし常に、弱い側、石を投げつけられて血ダルマになっている側の人間の方に、作者の愛情が注がれていることは読むうちに伝わってくる。
蛭子マンガの中に、汗水タラタラのサラリーマンと並んでよく登場するのが競艇レースの場面である。長崎の看板屋時代、バス停の前で「スリル・スピード・高配当! 大村競艇」なる看板を見つけて以来、18年間、暇をみつけては競艇場通いを続けている。