じじぃの「科学・芸術_124_海の向こうの甲子園・台湾・嘉農」

映画『KANO〜1931海の向こうの甲子園〜』予告編 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kW9qmn_3wsE

映画『KANO 1931海の向こうの甲子園
●近藤兵太郎 (こんどう ひょうたろう) 1888年7月17日、松山市生まれ。
二度の廃部の危機を乗り越え、1919年に松山商業は初の四国代表となり、甲子園出場を果たした。二回戦で盛岡中にやぶれたが、翌年1920年には準優勝した。
しかし、1921年9月に、近藤監督は”知人に誘われて”台湾へ渡り、後を受けて1922年に鞍懸琢磨が野球部長として着任し監督も兼任。近藤氏は松山商業が四国代表になるまでは、と毎年夏が近づくと帰省して松山商業野球部を指導した。
http://kano1931.com/chara01.html
文藝春秋』 「明治百五十年」美しき日本人50人 2017年4月号
近藤兵太郎 甲子園を席巻した台湾チーム 【執筆者】古川勝三(台湾の歴史研究会・会長) (一部抜粋しています)
松山商業野球部のコーチだった近藤は、両親や姉、甥、長女の死に直面し、生活を一新すべく31歳で台湾に向かった。嘉義商工学校に簿記教諭として務める傍ら、夏夏休みが来るたびに船で海を渡り、コーチとして故郷の松山商業野球部を指導、甲子園に6度連続出場させ、第1次黄金期を築いていた。
一方、商工学校に隣接する嘉義農林学校(以下「嘉農」)では1928年に野球部が創設されたものの、初陣で大敗。その後も一度も勝てない弱小チームが耳にしたのが、隣の学校に近藤という日本人の名コーチがいるという噂だった。近藤の指導を熱望する選手の声に、嘉農の教諭が説得に乗り出し、近藤はコーチを引き受けることを決める。40歳の時であった。
日本の占領下にあった当時の台湾では、野球は日本人のスポーツと思われていたが、近藤の考えはまったく違う。練習試合の対戦相手のメンバーに原住民の高砂族がいるのを見て、「あれを見ろ、野球こそ万民のスポーツだ。われわれには大きな可能性がある」と選手たちに言ったように、実力のある者が打って走り、最後まで守り抜けば必ず勝てる、必要なのは野球に対する情熱と身体能力だけだという信念を持ち、「日本人は守備がうまく、台湾人は打撃に強く、原住民族は走ることに長けている。こんな理想的なチームはない」と台湾野球に大きな可能性を感じ取っていたのだ。
中堅手だった蘇正生は、「マムシに触っても近藤先生に触るなと囁き合うほど、練習中は強い人であった。しかし怪我をした者にはとことん気を配って優しかった。いつも体中から熱気が溢れ出していて、正しい、強い野球を教えてくれました。差別はひとつもありませんでした」と語っている。
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1931年、近藤は正式に嘉農野球部の監督に就任し、全国中等学校優勝野球大会に出場すべく、台湾全島野球大会に挑んだ。選手の構成は、日本人3人、台湾人2人、原住民族4人、創設当初はのんびりしていた嘉農の選手たちは、近藤の鬼のような特訓によって勝利への強い意志を抱くようになり、日本人のみで構成された常勝チーム「台北商業」を打ち負かして優勝した。田舎の弱小チームが、台湾代表として、甲子園まで遠征に出かけるのである。台湾野球の歴史を塗り替える偉業に、嘉義市民は沸きに沸いた。
その夏、甲子園を埋め尽くす5万5千人の大観衆の前で、嘉農は快進撃を見せる。2回戦で神奈川商工、準々決勝で札幌商業、準決勝で小倉工業を相手に勝利を重ね、ついに決勝戦で、強豪の中京商業と対戦することになった。
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0対4で敗れて準優勝に終わったものの、嘉農のひたむきさは「戦場の英雄・天下の嘉農」と賞賛され、作家の菊池寛は「僕はすっかり嘉農ひいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、なんとなく涙ぐましい感じを起こさせる」と、観戦記に記している。
近藤は嘉農野球部の監督として、春に1回、夏に3回、甲子園に出場している。活躍した選手たちのなかには、戦後、台湾各地で少年野球の指導にあたり、台湾野球界に大きな影響を与えた者もいる。
近藤の活躍なくして嘉農の活躍はなく、嘉農の活躍なくして、今日の台湾野球はなかった。近藤が、台湾野球の礎を築いた名将と言われるゆえんである。