じじぃの「神話伝説_99_イザヤ書・主の僕(旧約聖書)」

讃美歌402番 主のしもべの 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qjUFnlH1nz4
The Servant Song 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=E_wMO5KxeAI
<講釈>主の僕 - 落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>
顕現後の第1主日と受苦日の旧約聖書のペリコーペは、3年共通で、イザヤ書からいわゆる「主の僕の歌」が選ばれている。
イザヤ書に含まれている「主の僕の歌」は4つあり、その内第1の歌(イザヤ42:1-9)が顕現後第1主日に、第4の歌(同52:13-53:12)が受苦日に読まれる。顕現後第1主日のモチーフはイエスの活動の出発点であり、受苦日は最終ポイントである。つまり、イエスの生涯に対する旧約聖書のテキストは、「主の僕の歌」で始まり、「主の僕の歌」で終わる。
http://blog.goo.ne.jp/ybunya/e/661ee9a8351c94b9122cc6386b4f7d2e
イザヤ書を読む 旧約聖書5』 本田哲郎/著 筑摩書房 1990年発行
”受難ー死ー栄光の神秘” 捕囚の意味 (一部抜粋しています)
1つの預言が1人の人物を描き出し、それが同時に神の民の歴史と運命を語り、その両者が1つに重なって別の1人の人物(イエス・キリスト)を指し示すという、預言者の典型とも言えるもの、それが次の”受難・死・栄光の主の僕”の預言詩です。古来、この歌に語られる「わたしの僕」とは誰を指すのか、議論が絶えませんでした。大づかみな言い方ですが、ユダヤ教は”神の民のイスラエル”を指すとする集団説を取り、キリスト教は”新約のイエス・キリスト”を指すとする個人説を取って来ました。使徒言行録に記録された、主の僕について、「預言者は、だれについてこういっているのでしょうか」と問うエチオピアの高官とフィリボのエピソード(使徒言行録8・26 - 40)は、この問題が歴史的にかなりさかのぼるものであったことを示唆します。
私たちは、「主の僕」が神の民イスラエルを指すからこそ、イエス・キリスト個人において成就したと見ます。そして、イエス・キリストにおいて成就したことは、”新しい神の民”であるすべての人において実現されるべきこととして受け止めることになります。
この預言詩は第2イザヤの預言全体の主題を凝縮して語ります。主の僕は、神に選ばれて神の霊を注がれ(42・1 - 4:僕の歌1)、諸国の光として、救いを地の果てまでもたらす使命を与えられました(49・1 - 6:僕の歌2)。彼は神の委任を受け入れ、神の支えに信頼して、嘲りとり辱めをひたすら耐える生き方を選びます(50・4 - 9:僕の歌3)。そして、この第4の僕の歌において、主の僕が受ける苦しみと痛みが他者のためであること、執り成しのための苦しみであることが明らかにされます。この預言詩は5つの段落にわけることができます。
 <序>
 見よ、わたしの僕(しもべ)は栄える。
 はるかに高く上げられ、あがめられる。
 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
 彼の姿は損なわれ、人とは見えず
 もはや人の子の面影はない。
 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
 彼を見て、王たちも口を閉ざす。
 だれも物語らなかったことを見
 一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
                   (52・13 - 15)
苦しむ僕の最終結果を明らかにする神の言葉、「わたしの僕は栄える」との宣言をもって、この僕の歌は始まります。この段落は僕の歌の序と言えます。
かつてエジプトで民が受けた悲惨さに匹敵する苦しみを受けて、今、主の僕の姿は「人の子の面影がない」までに損なわれています。しかし、実はその彼こそ、何事も”はっきりと見据えている”(サカル)のであり、「高く上げられ」(ムーム)、”身を起こし”(ナサー)、「あがめられる」(ガバー)のです。「栄える」と訳された語サカルは”洞察、理解”の概念を示す動詞です。苦しみと痛みの中でこそ人は真実を直感するものであり、その真実を追求する生き方によって真の意味での”成功、栄え”を得るのです。この世間一般の常識を転倒させる現実を知って、世の支配者、権力を持つ者たちは驚きのあまり口をつぐんでしまします。こんな”非常識な”神秘について、いまだかつて誰からも聞かされたことがなかったからです。
     ・
 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
 銀を持たない者も来るがよい。
 穀物を求めて、食べよ。
 来て、銀を払うことなく穀物を求め
 価(あたい)を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
 飢えを満たさぬもののために労するのか。
 わたしに聞き従えば
 良いものを食べることができる。
 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
                   (55・1 - 2)
この預言(55・1 - 13)をもって、バビロニアにいる捕囚の民への語りかけはクライマックスを迎えます。聖地イスラエル帰還の最終の呼びかけの言葉です。冒頭の言葉は、イエス・キリストが仮庵(かりいお)の祭りのとき、エルサレムの神殿で、すべての人に向かって呼びかけられたものです。
 渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
                   (ヨハネによる福音書7・37 - 38)
聖地イスラエルの豊かさを示す穀物、ぶどう酒、乳への招きが、いつの間にか神の豊かさへの招待へと移行し、「神に聞き従う」ことこそ、真の豊かさを味わうことになると諭します。この呼びかけは、世界中のすべての人への呼びかけにもなっています。神から親しく招きを受けた民が、全世界に対して「証人」となって、こんどは彼らを通じて呼びかけがなされます。「今、あなたは知らなかった国に丗ぼ掛ける」(55・4 - 5)。それは、”神に立ち帰れ、今なら、間に合う”という呼びかけです。
 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
 呼び求めよ、近くにいますうちに。
 神に逆らう者はその道を離れ
 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
 わたしたちの神に立ち帰るならば
  豊かに赦してくださる。
 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
 わたしの道はあなたたちの道と異なると
  主は言われる。
 天が地を高く超えているように
 わたしの道は、あなたたちの道を
 わたしの思いは
  あなたたちの思いを、高く超えている。
 雨も雪も、ひとたび天から降れば
 むなしく天に戻ることはない。
 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
 種蒔く人には種を与え
 食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
  むなしくは、わたしのもとに戻らない。
 それはわたしの望むことを成し遂げ
 わたしが与えた使命を必ず果たす。
                   (55・6 - 11)
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」という誘いの言葉は、わたしたちにとって大きな慰めとなるでしょう。神の豊かさは、憐れみと赦しにおいても豊かであると、預言者は私たちを励まします。
”神に立ち帰る”とは、”神に聞き従う”ことにほかなりません。神に従うためには、私たちの生活姿勢、発想の転換が要求されます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なる」と神は言われます。富と権力を支えにした価値観から、神の力に基づく価値観に変わらなければなりません。社会の中で、いつも後回しにされている人々を最優先させる、正義の実践に裏づけられた平和追求の生活姿勢に変わることが要求されているのです。「後の者が先になり、先の者が後になる」というイエスの度々の宣言は、実に、この価値の転換を告げるものでした(マタイによる福音書19・30、20・16、マルコによる福音書10・31、ルカによる福音書13・30)。それは、社会構造そのものの変革を求めるものであることは言うまでもありません。
従来の価値観を前提にしたまま、どこかを手直しすればよい、というようなものではありません。「主の僕」の生き方が私たちのお手本なのです。「主の僕」の典型であるイエス・キリストは、ご自身の生き方が私たちの「道」であり、それが神との一致をもたらす「真理」であり、そこに真の「命」があると告げられました(ヨハネによる福音書14・6)。政治も経済も、今、最も小さくされている人々の側に視点を置き、弱者の立場に立って機構を組み立て直すことが求められていると言えます。多大の困難が予想されます。しかし、私たちが「神の言葉」を真剣に受け止めて、これを実行に移すとき、神ご自身の力がそれを成し遂げてくださるのです。「それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と主は言われます。