じじぃの「人の死にざま_1512_マーガレット・バーク・ホワイト(写真家)」

マーガレット・バーク=ホワイト

LIFE magazine
「New Deal, Montana: Fort Peck Dam

マーガレット・バーク=ホワイト ウィキペディアWikipedia)より
マーガレット・バーク=ホワイト(Margaret Bourke-White, 1904年6月14日 - 1971年8月27日)は、戦間期アメリカを中心に活躍した、女性報道写真家、戦場カメラマンの草分け。
ニューヨークに生まれ、クラレンス・H・ホワイトに写真を学び、1920年代後半には写真家としての活動を開始する。ソ連を含めて、ヨーロッパにも足を運び、報道写真、ドキュメンタリー(労働者、貧困者、大恐慌時代の写真など)、機械・工場・建造物の写真、戦争(第二次世界大戦)写真などを、また、アメリカ空軍の写真家として、航空写真も撮影した。戦後は、インド、パキスタン南アフリカなどの発展途上国を回り、その様子を数多く撮影した。ちなみに、戦後には日本も訪れている。

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『医学探偵の歴史事件簿 ファイル2』 小長谷正明/著 岩波新書 2015年発行
「ライフ」の伝説 (一部抜粋しています)
マーガレット・バーク=ホワイトは報道写真家のはしりで、世界中の戦場を駆け巡って歴史的なシーンを撮りまくった。従軍カメラマンというと、ロバート・キャバが有名であるが、むしろ彼女の方が、印象的なショットを多く残しているかもしれない。
医学部入学前の浪人時代、筆者はアメリカの写真週刊誌『ライフ』をよく読んでいた。独特のインクの香りの向こうに世界を垣間見つつ、英語の勉強をしていた。ハリウッド女優や月旅行のアポロ宇宙船のページの間に、東京でデモ隊を取材した女性カメラマンの記事があった。
スクープ写真を撮ろうとしたが、手がこわばってフィルムを装填できなかったという。1970年前後、過激派学生と機動隊の衝突が激しく繰り広がられており、その場面だろうと思った。ところがよく読むと、1952年のメーデー事件のことだった。女性カメラマンは、その日を境に徐々に動作が鈍くなった。「まるで、自分が自分自身の体の囚人になったよう」というほど動けなくなり、神経内科医を受診した。医者は「病気の診断はつきました。が、その病気の進行した患者をみると、貴女はショックを受けるでしょう」と言って病名を告げなかった。しかし結局、健康保険の書類から、パーキンソン病だと知る。そしてその後の治療の様子が述べられていた。
そのカメラマンがマーガレット・バーク=ホワイトであり、筆者が初めてパーキンソン病の名を知ったのはこのときだった。
彼女は奔放な女性で、何度も離婚し、今よりはるかに男性優位の当時の社会で、能力以外にコケトリーを世に出るための武器にしていたようだ。
1904年にペンシルバニア州で生まれ、爬虫類の動物学者を志して大学に入った。アメリカといえど、女子大学生が珍しい時分である。途中で写真家に転向し、最初は建築や産業の写真を撮っていたが、革命後まだ日の浅いソビエト連邦アメリカ人ジャーナリストとして初めて入り、ナチス体制下で軍備にいそしむドイツの姿も世界に発信している。1936年に創刊された大判写真誌『ライフ』の最初の表紙は、彼女による直線的なダムの写真だった。大恐慌からの復興を目指すアメリカ国民に力強さを印象づけた。
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手術は成功したかのようにみえた。彼女がカメラにフイルムを装填するスナップが『ライフ』に載っている。しかし、なぜかパーキンソン病に対する脳外科手術の多くは効果が一過性であった。このときもそうだった。やがて、手足を動かしにくい症状は彼女の右半身にもおよび、61年に反対側の視床の手術を受けた。が、高価なく、むしろ言語障害が悪化した。そして日常生活動作能力は低下し、介助を要するようになった。
1969年、L-ドバによる治療のために彼女は入院した。筆者の古い記憶にある『ライフ』の記事は、特効薬への期待を込めたものだった。実は、彼女の最初の手術の2、3年前には、パーキンソン病患者では神経伝達物質ドーパミンが減っていることがわかっていた。そのため、身体をスムーズに動かすための脳内の調節機能がうまく働かなくなっているのだ。L-ドバは脳の中でドーパミンに変化する特効薬だ。
しかし、彼女への治療は中止された。おそらく副作用が強かったのだろう。幻覚、異常運動、消化器症状などだろうが、彼女の伝記からは詳細はわからない。
71年7月、彼女は転倒して寝ついてしまい、翌月に死亡した。67歳だった。