じじぃの「神話伝説_78_ヨナ書(旧約聖書)」

Beginners Bible - Jonah and the Whale 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XYUFq8azCw4
古代アッシリアの都ニネベの遺跡

海岸に吐き出されるヨナ

旧約聖書の謎 - 隠されたメッセージ (中公新書) ネタバレ 読書メーター
面白かったのは、ヨナ書、「ヨナと大魚」の成立話。 不信心な(そもそもがおかしいが)預言者ヨナが、神に命じられた布教の旅から逃走しようとする話。ヨナのいい加減さや、神に対する傲慢な態度を、読者が自分に投影して、笑いをとろうという、一種の落語みたいなもの。
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ヨナ書 ウィキペディアWikipedia)より
『ヨナ書』は旧約聖書文書のひとつ。ユダヤ教では「後の預言者」に、キリスト教では預言書に分類する。
キリスト教でいう十二小預言書の5番目に位置する。4章からなる。内容は預言者のヨナと神のやりとりが中心になっているが、ヨナが大きな魚に飲まれる話が有名。著者は不明。
この書は、異邦人を主人公としているルツ記と同じように、イスラエルの民の選民思想・特権意識を否定しており、当時のユダヤ人には驚くべき内容であった。この点において旧約聖書文書の中で異彩を放っている。
【物語】
ヨナは、神から、イスラエルの敵国であるアッシリアの首都ニネヴェに行って「(ニネヴェの人々が犯す悪のために)40日後に滅ぼされる」という予言を伝えるよう命令される。
しかし、ヨナは敵国アッシリアに行くのが嫌で、船に乗って反対の方向のタルシシュに逃げ出す。このため、神は船を嵐に遭遇させた。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったかくじを引く。そのくじはヨナにあたったので船乗りたちは彼を問い詰めると、彼は自分がヘブル人で海と陸を造られた天の神、主を畏れていることを告白する(神から逃げていたことは既に話してあった)。ヨナは自分を海に投げれば嵐はおさまると船乗りたちに言う。最初、船乗りたちは陸にたどり着こうと努力したが、激しい嵐のためできず、ヨナの言うとおり彼の手足をつかんで海に投げ込んだ。ヨナは神が用意した大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚の腹の中にいたが、神の命令によって海岸に吐き出された。
【主題】
ヨナ書の主題は、宣教者として神の指示に従わなかったことと、ニネベの人々が悔い改めたことに対して不平不満を言ったことに対するヨナの悔い改め (=神に仕える者としての生き方を正す) と、神は異邦人でさえも救おうとしておられる (=間違った選民思想を正し、異邦人に対する偏見を捨てる。神に仕える者としての考え方を正す) という2つのことである。
【成立年代】
『ヨナ書』がいつ書かれたのか正確な年代を特定することは難しい。伝統的には、預言者ヨナが実際に活動した紀元前8世紀前半と考えられてきた。ニネベの悔い改めについて語っていることから、どんなに遅くとも、紀元前612年のニネベ陥落(アッシリア滅亡)の前であることは間違いない。また、ニネベが悔い改めたために滅ぼされなかったという内容から、ニネベ陥落の直前とは考えにくいことから、遅くとも、紀元前7世紀中ごろまでであるように思われる。
ニネヴェ (メソポタミア) ウィキペディアWikipedia)より
ニネヴェ(英語: Nineveh)は、古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェという名は旧約聖書(ヨナ書など)の表記によるものであり、アッカド語ではニヌアと呼ばれる。新改訳聖書では、ニネベと表記される。現在は、対岸のモースル市域に含まれる。

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『聖書に見る人間の罪―暗黒に光を求めて』 三浦綾子/著 光文社文庫 1986年発行
不満・執着・呪い (一部抜粋しています)
ヨナが海に投げ入れられると、今まで荒れ狂っていた海が嘘のように凪(な)いだ。人々はイスラエルの神を恐れ、大いに崇めた。この事件は、おそらく瞬くうちに、キリキヤに、イスラエルに、アッシリアにと伝わったにちがいない。
一方、ヨナはいったん海に放りこまれたが、大魚に呑みこまれた。聖書には次のように書いてある。
<主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた>
ここに「備えて」という言葉がある。かつて私は療養中、白洋舎の創立者である五十嵐健治氏の見舞いを受けた。このことは、私の自伝小説『道ありき』にも書いたが、その時五十嵐健治氏は、このヨナの書を説き聞かせてくださった。そして、この短いヨナ書の中に、「備えて」という言葉が幾つかあることを話された。おそらく、その大暴風も、神が備えた暴風であったのだろう。ヨナは大魚の腹の中にあって、長い祈りを捧げている。そして最後に、
<「わたしは感謝の声をもって、あなた(神)に犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救いは主にある」>
と言っている。この祈りを聞かれた神は、魚に命じて、ヨナを陸に吐き戻された。途端に、神の言葉が再びヨナに臨んだ。あのニネベの町に行き、滅亡を予言せよ、というのである。
<ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、3日を要するほどであった。ヨナはその街にはいり、初め1日路に行きめぐって呼ばわり、「40日を経たらニネベは滅びる」と言った>
諸国民の血を吸って、ふくれ上がったニネベの町は、ひとめぐりするのに3日を要したといわれる。1日路(当時1日の行程を1日路という言葉で表現していた)は、普通32キロから、48キロを指したというから、ニネベの町の大きさは想像できる。
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ヨナは、ニネベの町が助かったことで、「死んだほうがましだ」と神に毒づいた。そしてヨナは、町の東に小屋を造った。ニネベの最後を見届けてやろうとの、冷たい傍観者の思いからであった。
傍観者にとっては、他の者の終末が悲惨であればあるほど快いのだ。この頃、世の終末を扱った本がよく出ているようだが、どのような思いで読まれているのだろう。ヨナは決して、ニネベの人の魂のために祈ったのではなかった。神に許され、神に従ったのちでさえ、人間はこの世が神の思いどおりではなく、自分の思いどおりになることを願うのである。こんな傲慢なヨナを暑さから救うために、神はとうごまを生えさせられた。
<ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませせられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照らしたので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬほうがわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた。「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った。「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万あまりの、右左をわきまえない人々と、多くの家畜とのいるこの大きな町ニネヴェを、惜しまないでいられようか」>
ここには、実にヨナを通して、人間の傲慢の罪、不信の罪があらわにされている。ヨナが小屋を造った時、そこにとうごまはなかった。最初からヨナは暑かったのだ。ところが神は、一夜にしてとうごまを育ててくださった。ヨナは日陰が出来て大いに喜んだが、翌日そのとうごまは枯れた。前にも暑かったのだが、とうごまによる涼しさを知ったヨナには耐え難い暑さとなって、死んだほうがましであると神に言った。
私たち人間は、さまざまな恵みを一方的に与えられながら、なんと神を呪うことの多い者であろう。死んだほうがいいとは、命を与えてくださった神に対する最大の反逆である。最も投げやりな、最もエゴイスティックな姿を、ヨナはむき出しにした。誰もヨナに、この小屋にすわっていてくれと頼んだ者はいない。暑ければ、そこを立ちさればよかったのだ。
が、ヨナは自分自身の、「ニネベの町のなりゆきを見てやろう」という立場に執着した。これはそもそも、神のニネベに対する寛容を不満としていたからである。不満と執着のあまり、ヨナはそこから身動きがならなくなったのだ。私たちもまた、自分の立場や思いに執着すると、必ず、このヨナのように、神への不満や人の愚痴が絶えなくなる。
とうごまのことでヨナが神を怒ったのは、まさに忘恩の姿しか言いようがない。神はヨナの惜しんだそのとうごまを用いて、ニネベの人々を惜しんだ神の愛を説き聞かせられた。
ヨナ書はここで終わっている。が、ヨナはここで初めて目が覚めたのではないだろうか。ヨナにとってイスラエルの神は、イスラエルだけを導き、イスラエルだけを励まし、イスラエルだけを救う神であった。が、神は、ご自身がイスラエルのもの神ではなく、万国の民を愛する神であることを、明確に示されたのだ。数々の人間的罪の姿をさらしたヨナも、この神の愛に目覚めて、「ヨナにまさる者がここにいる」と、キリストにその名を覚えられるほどに、成長していったものと思わずにはいられない。