じじぃの「神話伝説_59_死海文書の謎」

The Secrets of the Dead Sea Scrolls 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=wneSV0FOsMA
Discovering The Dead Sea Scrolls 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=JAi7ZDY2q4s
死海文書の謎 ナショナルジオグラフィック日本版公式サイト
最古の聖書関連書籍「死海文書」。書いたのは誰か?
「銅の巻物」は財宝の在りかを示しているのか?最新の調査から、死海文書の謎を解き明かします。
http://nationalgeographic.jp/nng/shop/detail.php?id=330
死海文書 イザヤ書の写本の複製

死海文書の謎
●『死海文書』とは何か?
1947年、春のことである。場所は中東。死海の北西岸、「クムラン」と呼ばれる地域で、3人のベドウィンの羊飼いの少年が、逃げた羊を捜していた。
死海は、ヨルダンとイスラエルの国境にある塩湖。湖面は海面下400メートル、地上で最も低い場所だ。周りには洞窟も多い。
羊飼いは、羊の姿を追って洞窟を一つ一つ覗いていった。と、ある洞窟で不思議な物を発見する。
●クムランとイエス
キリスト教で唯一の「救いの主」とされるイエス。彼は伝道開始以前、どこで何をしていたのか? 答えのヒントは洗礼者ヨハネとイエスの関係にある。
今日「復活」と呼ばれる奇跡がそれだ。生き返ったイエスはクムランに帰り、生涯をここで過ごしたと考えられる。
しかし、この奇跡を目の当たりにし、イエスの教えを受けた信徒達はクムランに属することなく、独自の宗教を打ち立てた。これがキリスト教である。キリスト教の教義や儀式にクムラン宗団との類似点が多いのは、いわばクムラン宗団の変形であるといえよう。
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Drum/8132/sikai.html
死海文書 ウィキペディアWikipedia) より
死海文書(Dead Sea Scrolls)あるいは死海写本は1947年以降死海の北西にある遺跡ヒルベト・クムラン(英語版) (Khirbet Qumran) 周辺で発見された972の写本群の総称。主にヘブライ語聖書(旧約聖書)と聖書関連の文書からなっている。死海文書の発見場所は1947年当時イギリス委任統治領であったが、現在ではヨルダン川西岸地区に属している。「20世紀最大の考古学的発見」ともいわれる。
死海文書は誰が書いたのか】
死海文書の著者が誰であるかについては諸説あるが、現在に至るまでもっともよく知られ、広く支持されてきた学説は、死海文書の著者をクムラン教団の人々と考え、クムラン教団を古代ユダヤ教のグループであるエッセネ派の共同体とみなす説である。
文書が発見された最初期においてエレアザル・スケーニクはすでにエッセネ派死海文書を結びつけて考えていたし、ロラン・ド・ヴォーとヨゼフ・ミリクはクムラン遺跡の発掘によって「クムラン教団エッセネ派死海文書の書き手」という説に至った。この説によれば、クムランに拠っていたエッセネ派の共同体によって死海文書が記され、ユダヤ戦争時の紀元66〜68年頃に戦火を避けるためにクムラン周辺の洞窟に隠されたとされる。

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『イエスのミステリ――死海文書で謎を解く』 バーバラ・スィーリング/著、高尾利数/訳 NHK出版 1993年発行
失敗した死 より
エスはもう死んだものと思われた。彼は他の2人と同じ洞窟に入れられるはずであった。それが許された歩行距離内にあったからである。午後6時前に彼をそこへ運ぶことができた。一番近い親戚であったヤコブに、兄を埋葬するという役割が与えられた。彼はピラト(ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督)と語ったが、ピラトは、イエスがすでに死んでしまったということに驚きを示した――十字架刑というものが普通もっと長く続くものだということを知っていたからである。
シモン・マグス(クムランのゼロテ的運動の領袖、ラザロ)とユダ(ゼロテ党員、クムランの書記)は十字架から下ろされ、脚を折られた。彼らは遊歩道の南の端まで運ばれ、さらに曲がりくねった道を下って洞窟に運ばれた。そして中の東側に置かれた。
エスに愛された弟子のヨハネ・マルコは、イエスの十字架の近くに立っていた。テラペウタイと関係があったすべての者と同様、彼は医学的知識を持っていた。死んでいるかどうか試すために、イエスの脇腹が槍で刺されたとき、血が流れ出たのを見た。そしてこれは、イエスがまだ生きていることをほぼ確実に意味することを知っていた。ヨハネ・マルコは、この情報をヤコブとテウダ(テラペウタイの領袖)に伝えた。テウダはいろいろな理由で、イエスに大いに感謝してしかるべきであった。彼はヤコブに手を貸してイエスを洞窟まで運び入れた。そして意識を失った男のそばに、100ポンドのミルラ(没薬)とアロエ――それは大変な量であった――を置いてきた。
アロエの汁は、浄化剤として作用するし、大量に用いられた場合には急激に作用する。ミルラは緩和剤で、粘膜に作用する。これらの薬は、毒物を排除するためにのみ用いられるべきものであった。
3人の男たちが洞窟の中に入れられた後に、大きな石が、入り口として用いられた頂上の開口部にはめ込まれた。すべて見掛け上は、彼らは今やそこに放置され、死ぬのを待つばかりであった。ピラトは、洞窟が封印され、見張りが配置されたのを確認した後、エルサレムに戻った。仕事は達成されたと信じていたのである。
洞窟の中で より
もう1人つけ加えられた見張り番が到着した。テウダ(テラペウタイの領袖)という人物であった。彼には、午後9時から午前3時までその地域の南端を巡視するという夜警の義務があった。テウダはかなりイエスに同情していて、洞窟にイエスのそばに薬を置いてきたのだった。アナヌス(位の低い祭司の少年)もまた、個人的にイエスに大きな敵意などを持っていなかった。
その薬は、職業的技能を持つ者が用いなければならなかった。マグスがそういう技能を持っていた。テウダは、一か八かイエスを助けようと決心した。彼自身の安息日は午前1時まで延長され、真夜中まで始まらなかった。その時間まで重い荷物を持ち上げることができた。アナヌスも西方の時間を用いた。アナヌスよりも上位にいたテウダは、入り口を塞いでいた石を持ち上げるために彼の協力を得た。
2人の男は、斜めの坑道を滑り降りて廊下に達した。シモンの同意を得て、彼らはイエスを持ち上げて西側の部屋へ移した。シモンは、イエスの横に横たわりながら薬を与え、毒を排出させることができた。
その仕事をするために明かりが必要であった。洞窟には油ランプがあったので、手助けする者たちが灯した。下の平地の「女王の家」では――それは遊歩道の端と並んでいた――マグダラのマリアが崖を見上げていた。彼女はそこに埋葬のための洞窟があることを知っていた。西側の部屋の中に光が現れたのを見て、何かが起こっているのを悟った。
妊娠している女性は、安息日の諸規定から免除されていた。安息日に子供を産むかもしれないからである。彼女は、自分のランプを持ち、2000キュービット登って台地まで来ると、さらに洞窟へと降り、真夜中に到着した。階段の上で、洞窟の上の穴から石が取り除かれるのを見た。そしてまたシモンが西側の部屋にいるのを見ることができた。一番よいことは、建物群まで戻り、ペトロとヨハネ・マルコを連れて来ることであった。マリアは道を登って戻り、彼らを起こし、自分が見たことを話した。
シモンがイエスと一緒にいたという情報は、ヨハネ・マルコに何が起こったのかを知らせた。おそらくイエスが回復したのだ。そして助けが必要なのだ、と。彼とペトロは、病人の手当てをするというので、テウダによって入るのが許されるであろう。彼らはペトロの先導で、洞窟へ降りて来て中に入った。
そのときまでにはシモンは東側に連れ戻されていえ、2人の見張りは外にいた。午前1時であった。そして彼らは今や安息日の律法に縛られていた。重い物を持ち上げることを許されず、休息しなければならなかった。
シモンは意図したわけではないが、西側の部屋にいたことの印を残してきた。つまり彼の頭巾(soudarion)をである。ヨハネとペトロはそれを見て、マリアが本当のことを告げたのだと悟った。シモンはそこにいたのだった。2人はエスが生きているのを発見した。だが彼は弱って横たわっていた。安息日の規則を破ることになるが、彼を洞窟から連れ出すべきだという同意が得られた。1人がイエスを乗せて運ぶための担架を手に入れるべく出ていった。