じじぃの「人の死にざま_1403_ゴードン将軍」

General Charles George Gordon and THE GARDEN TOMB. 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Ruqz_6_7E_U
Khartoum (1966) Original Trailer 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=cRdFn6G-lL4
ゴードン将軍

チャールズ・ゴードン ウィキペディアWikipedia)より
チャールズ・ジョージ・ゴードン(Charles George Gordon、1833年1月28日 - 1885年1月26日)は、英国の軍人。太平天国の乱の時、民兵組織の常勝軍を率いて活躍、その後、スーダンハルツームでの壮絶な戦死で人々の記憶に残ることになった。
チャールズ・ゴードンは、英国陸軍砲兵隊H.W.ゴードン将軍の4男として誕生し、その後、王立陸軍士官学校に入り、1852年に少尉に任官した。
1860年に第二次アヘン戦争が始まると、清に赴任し、1862年まで北京に駐留していたが、太平天国からの防衛のためウィリアム・スティーブレイ(en:William Staveley)将軍の部隊が上海に派遣されると、その一員として同行した。当時、上海では外国人の権益を守るため米国人ウォードが常勝軍と名付けた民兵軍を組織しており、英軍はこれと連合し太平天国軍と戦った。ウォードが戦死すると、淮軍の司令官李鴻章は代わりの司令官を英軍から出すよう要請したため、スティーブレイ将軍はゴードンを常勝軍の司令官に推薦した。英軍少佐だったゴードンは、1863年に常勝軍の司令官となり、以降、1864年太平天国が壊滅するまで各地を転戦し、乱の鎮圧に功績を挙げた。
終結後、清朝から軍の最高官職を受けた。英国は彼を英軍中佐に昇進させ、バス勲章(コンパニオン)を与えた。ゴードンは、この後、本名をもじってチャイニーズ・ゴードンと呼ばれるようになる。

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『日本の歴史を貫く柱』 副島隆彦/著 PHP文庫 2014年発行
明治維新はイギリスの世界戦略の中に組み込まれていた (一部抜粋しています)
イスラム教の副王(バイスロイ。形上はオスマン・トルコ帝国が派遣した総督)が統治していたエジプトは実質的にイギリスの植民地にされていた。今のエジプトはアラブの大国であり、自身はアラブの盟主だと思っている。現在でもエジプト知識人(ほとんどはイスラム教の思想家だ)が、西洋諸国との接点(共同了解の能力)をいちばん持っている。だから彼らエジプト人からすれば、南の奥地のスーダンで起きた反乱で、現地のイスラム教徒たちにイギリス派遣軍が、1883(明治16)年に大敗北を喫して、それで自分たちの同法がたくさん殺されたという複雑な事情になる。
反乱軍を鎮圧するために、イギリス本国政府はただちに軍隊を派遣しようとした。しかし英国議会は揉(も)めた。その後ようやく、”チャイニーズ・ゴードン”(チャールトン・ヘストンが演じた)を現地に司令官として派遣した。チャイニーズ・ゴードンとは、ゴードン将軍のことである。
ゴードン将軍は、その前に、長く中国に派遣されていた。中国で1851年に始まって中国全土をおおった「太平天国の乱」があ。これは愛国的(民主主義的)な中国民衆による反植民地主義の決起であった。この太平天国の乱を鎮圧したのが、イギリス派遣軍の責任者(司令官)であったゴードン将軍である。だから「チャイニーズ・ゴードン」と世界史で呼ばれるようになった軍人である。
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映画『カーツーム』を見ることで、これらの世界史の大きな構造が私には分かった。この大きな理解に到達しないで、日本人がいまだに井の中の蛙(かわず)のままで何かを偉そうな世界理解をひけらかしても一切、無効である。
日本部族という原住民の部族社会の中で、自分は物知りだと自惚(うぬぼ)れている程度の原住民のまじない師(=原住民の学者・知識人階級)にすぎない。村のまじない師(医師でもある)が悦に入って村人(一般国民)を騙しているだけのことだ。私にはそれらの光景が長年馬鹿らしくて仕方がない。この私に傲慢になるな、と説教を垂れることのできるほどの人はいるか。いたら無条件にその人は私の先生だ。
さて、スーダンイスラム原理主義の反乱を起こしたマハディ(Mahdi マフディとも書く)も又、この映画『カーツーム』のおしまいの説明者きでは、1885年のカーツームの陥落のあと反乱軍内部の抗争が起きて、それで殺されたとなっている。
この映画の最後は、イスラム式の陣幕(大テント)の中で、槍の穂先にゴードン将軍の首を突き刺して不気味な笑い顔をうかべ、狂信的な預言者の目つきをギラギラとさせるローレンス・オリヴィエの鬼気迫る、鬼の乗り移った表情で終わる。
しかし史実(歴史の真実)はマハディの反乱はその後も13年も続いている。マハディは、カーツームを陥落させると「マハディ王国の建国」を宣言している。そして、4年後の1889年には、エジプト遠征を企てて、ナイル河沿いに北上してイギリス植民地と正面からぶつかって、そこで進撃を阻止されている。更にその10年後に、再びイギリス軍がカーツームに進軍して来て、月に1898年9月2日に、マハディは戦死してこの王国は滅亡している。その後は、スーダンは、形式上はイギリスとエジプトの共同統治領という形になった。
このようにして世界帝国の支配は各国での反乱と反抗を口実のバネにして続いてゆく。だから、「イスラム原理主義の故郷はスーダンなのだ」という世界知識人の側で共同了解されている定型化された知識をゴードン将軍の人生の物語と共に、私たちは知るべきなのだ。世界規模での歴史というのはこれぐらい大きなものなのだ。