じじぃの「神話伝説_14_アダムとエバ(イブ)」

NHK 100分 de 名著 : 旧約聖書 1/4 : ユダヤ民族の成立 動画 dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x2b43w9_nhk-100%E5%88%86-de-%E5%90%8D%E8%91%97-%E6%97%A7%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8-1-4-%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%B0%91%E6%97%8F%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B_school
Here I Am Lord 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=GINNh15cT08
人類は原罪を背負っているのか?

聖書の「命の木の実」「善悪を知る木の実」の解釈について、旧約と新約では違う? 2013/6/27 Yahoo!知恵袋
回答
アダムとエバの話は人類が自由を以て主体的に生きるか、動物の様に本能的に生きるかの、選択をしたことを神話にしたのです。
聖書は何故こんなに書かれているかの意図を読むべきで、教条主義、字義通り読むと誤解する。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14109431954
聖書のサタン(同ルシファー、ルシフェル)の行動についてなのですが 2010/10/18 Yahoo!知恵袋
・蛇に成りすまして、あるいは蛇こそがサタン自身ゆえ、イブを騙してアダムを堕落させる
これは聖書のどの部分を読めば分かりますか?
回答
よそのキリスト教ではルシファーをサタンといいますし、アニメや小説なんかでもそういうけど、厳密に聖書的に言うなら、ルシファーはネブカドネザルを指しています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448906484
エゼキエル書の「神の園エデン」と創世記の「エデンの園」の関係について述べよ。 2014/12/4 Yahoo!知恵袋
回答
創世記もエゼキエル書も繁栄と驕りと腐敗、そして滅びがてテーマなのですね。
エゼキエル書28章には湾岸交易で栄えたティルスの町を「神の園エデン」と称し、その繁栄ぶりと腐敗そして滅び。
創世記がユダヤ人国家のことを書いているとすれば、ユダヤ人の関心は当然何故我々はバビロニアアッシリアに滅ぼされたのかにあるのでしょう。
お前は「神の園であるエデン」にいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉、紫水晶/かんらん石、縞めのう、碧玉/サファイアざくろ石、エメラルド。≫贅を尽くした王政が生活が社会の緩みを生み大国につける隙を与えた。
明確な答えはわかりませんが、、創世記はバビロン捕囚ののち、復古主義思想・ユダヤ民族統一・歴史への批判などを意図して書かれたということにヒントがあるのでしょうね!
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12139004097
名著33 「旧約聖書」:100分 de 名著 「第1回 こうして“神”が誕生した」 2014年5月7日 NHK Eテレ
【司会】伊集院光武内陶子 【ゲスト講師】加藤隆(千葉大学文学部教授)
旧約聖書ではまず、世界の創世について語られているが、そこから何が読み取れるのかをまず探る。さらに時代が下ると、ユダヤ人の祖先はエジプトで奴隷として暮らしていたとされている。彼らはヤーヴェという神を信じるモーセに率いられ、エジプトからの脱出を企てる。追っ手のエジプト軍が迫るが、海の水がひいて無事に渡ることが出来たという。この有名な物語が意味するものとは何なのだろうか。
第1回では、戦乱が続く古代の中東で、当時の信仰とはどんなものだったのかを考える。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/33_kyuyakuseisho/
アダムとエバ ウィキペディアWikipedia)より
アダムとエバ(イブ)は、旧約聖書『創世記』に最初の人間と記される人物である。天地創造の終わりにヤハウェ(エホバ)によって創造されたとされる。
蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧め、2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、イチジクの葉で腰を覆ったという。
この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なるエホバ神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎をおいた。
旧約聖書での堕落 ウィキペディアWikipedia)より
旧約聖書の冒頭が創世記である。その冒頭では神が7日間で世界を創り、楽園に男と女を住まわせたが、彼らが蛇の誘惑によって禁忌を犯したので楽園を追放されたという、神による天地創造と人間の堕落が語られる(創世記1-3)。以下、創世記には最初の殺人であるカインとアベルの兄弟の話(創世記4:1-16)、ノアの箱舟(創世記6:5-9:17)、バベルの塔(創世記11:1-9)などの物語が続いていく。
キリスト教での堕落 ウィキペディアWikipedia)より
キリスト教では、最初の人間が三位一体、創造主である神(天主、絶対者)に背いて堕落し、原罪を持ち、死ぬ者となったことを人間の堕落と呼び、神学上は堕落前の世界と堕落後の世界を分けて考える。改革派教会、カルヴァン主義では全的堕落の教理がある。また、堕落した御使いは悪魔と呼ばれている。

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『Mr.都市伝説 関暁夫の都市伝説5 メディアの洗脳から覚めたみなさんへ』 関暁夫/著 竹書房 2014年発行
東方の星 より
キリスト教が広まる以前、古代エジプトやその周辺は、ほとんどが多神教や女神を信仰していました。これは、キリスト教の教義と合わず都合の悪い考えでした。そこで女神は異教徒の証だとし、美しい女神だった姿を、異形の姿、悪魔に置き換えたのです。
たとえば、すべてのものを産み出す母なる大地の神・イナンナ神。いつもフクロウとセットで描かれているこの神も、悪魔とされてしまいました。本来イナンナは金星の女神でもあります。金星は英語でヴィーナス。ローマ神話の金星の女神です。
金星は夕方と明け方のみに見られる星です。夜明け前にひときわ光り輝く明けの明星は、闇の中から”光をもたらす”星なのです。ラテン語で「光をもたらす」(lux 光 + fero 運ぶ)を意味するのは”ルシファー”です。
知識と自由意志の光で新たな夜明けを迎える、知恵の象徴なのです。
エデンの園で人間に知恵の実(禁断の果実)を食べるようにそそのかした蛇としても表現されるルシファー。人間はエデンの園・楽園を追放されたのではなく、知恵を持って自由な意思を獲得し、新たな発展に向かって自らの足で外に出たと捉えることはできないでしょうか。
悪とされたものにどれだけの理由があるのか。伝えられているものを、そのまま信じない方が良いということでしょう。

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『人類の歴史を変えた8つのできごとI――言語・宗教・農耕・お金編』 眞淳平/著 岩波ジュニア新書 2012年発行
悪魔の概念 (一部抜粋しています)
じつは、旧約聖書でもっとも重要な「創世記」「出エジプト記」などの「律法」(トーラー)に、悪魔は登場しません。もちろん、エバに「善悪の知識の木」の実を食べるよう誘った蛇も、悪魔ではありません。イスラエルにはもともと、悪魔という概念は存在しなかったのです。これは、『ギリシャ神話』を生み出した古代ギリシャなどでも同様です。
それが変わるきっかけとなったのが、「バビロン捕囚」というできごとでした。この事件によって、多くのイスラエルの民が、新バビロニアという国に連行されます。これを救ったのが、現在のイラン周辺にあったペルシャです。
そのペルシャでは当時、「ゾロアスター教」という宗教が信仰されていました。
ゾロアスター教では、この世の終わりに善と悪の戦いがある、とされています。この悪の概念が、次第に悪魔という存在を生み出していきました。そしてペルシャの支配の下で、ユダヤ教各派の中に、悪魔の概念が少しずつ浸透していったのです。同時に、この世の終わりに善と悪の戦いが起きるという考え方も、徐々に根を下ろしていきました(『神の河 キリスト教起源史』)。
このように、悪魔も、最終戦争である「ハルマゲドン」の概念も、ユダヤ教の初期には存在せず、ゾロアスター教という宗教の影響を受けて、途中から入ってきたものだということは、覚えておいてもよいでしょう。

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旧約聖書を知っていますか』 阿刀田高/著 新潮文庫 1991年発行
アダムと肋骨 (一部抜粋しています)
”初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第1の日である”
ここまでが神の第1日の作業である。だれかが見ていたわけではない。だから、
「ああ、そうですか」
と信ずるよりほかはない。そして、この先しばらくはすべてが神の意志によって創造されたと、これが肝腎なのである。
2日目に空を創り、3日目に陸と海を創り、さらに草と木とを地に生えさせた。4日目に入って太陽と月と星を創り、5日目に水に棲む生物、空を飛ぶ鳥を創り、6日目に、地を這う獣、そして家畜を創り、最後に”神は自分にかたどって”人間を、男と女を創った。さらに人間にすべての生物を支配するように命じた。7日目には、
「これで終わった。一休み」
安息の日と定め、聖なる日とした。
神が創造した大地は豊かな水に恵まれ、草木が繁茂し、動物たちも増えて戯れ、のどかな楽園となった。土の塵からアダムが創られ、鼻に息を吹き込まれて、ここに最初の人間が誕生する。
楽園のまん中には、命の木と、善悪を知る木とが生えていて、多分どちらの木の実も食べてはいけなかったのだろうけれど、神がとりわけ強調したのは、
「すべての木の実を取って食べてよいけれど、善悪を知る木からは、けっして実を取って食べてはいけない」
のほうであった。
このあと神は、眠っているアダムのあばら骨を取って女を創りだす。エバ(イブ)である。
「あれっ、天地創造の6日目に、男と女が一緒に創られたんじゃないの?」
と、ここ数行を丁寧に読んでいる人から疑問が出るかもしれない。
たしかにさっきはそう書いた。聖書にもそう書いてある。
男と女が人間として同時に創られたのかどうか、それとも女は男のあばら骨にすぎないのか、20世紀的視点に立てばけっして小さな問題ではないけれど、聖書の冒頭には2つの表現がべつべつに記されている。お好きなほうを採っていただきたい。
この部分だけではなく、創成期には矛盾もいくつかあり、当然書いてあるべきことが抜けていたり、前後関係がはっきりしなかったり、厄介なところも多いのだが、これはいくつもの伝承が交錯したせいであり、なべて古代の物語は戸締りがわるいところがあるものだ。ドンピシャリとはいかない。疑義の生じる部分には、それぞれ研究がなされているけれど、アマチュアが深く拘泥することもあるまい。さりげなく通過しよう。
はじめのうちはアダムもエバも丸裸であった。それを恥ずかしいとは思わなかった。
ここに登場するのが蛇である。
なぜ蛇なのか。
人間の集変異棲息していて、いかにも嫌らしい生き物といえば、常識的に思い浮かぶのが、まず蛇……。邪悪で、醜悪で、知恵も魔力も持っていそうである。やはり悪役にはこれがふさわしい。
蛇はまずエバを唆(そその)かす。エバは善悪を知る木から実を取って食べてしまう。
「おいしいわよ」
アダムにも渡して食べさせる。
とたんに2人は、裸でいることを恥ずかしく思って、いちじくの葉で恥部を隠した。この瞬間に人間はことの善悪を知り、知恵を身につけた。