じじぃの「人の死にざま_1367_ジョルジュ・オーリック」

Percy Faith 映画 「赤い風車」 ムーラン・ルージュの歌 The Song from Moulin Rouge 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Ju2ud91gULk
Roman Holiday Trailer 1953 - Official [HD] 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=twi3lQIDkiU
ジョルジュ・オーリック ウィキペディアWikipedia)より
ジョルジュ・オーリック(Georges Auric, 1899年2月15日 - 1983年7月23日)は、フランスの作曲家。「フランス六人組」の一人として、また映画音楽の大家として知られる。
【略歴】
南仏ラングドック=ルシヨン地域圏エロー県のロデーヴ出身。
コクトーが1930年代初頭に動画の制作に取り掛かると、映画音楽の作曲を始める。フランスやイギリス、アメリカの映画産業に多くの楽曲を提供し、その方面で大家として成功を収めた。代表的な映画音楽に、『自由を我等に』(1931年)、『美女と野獣(1946年)、『赤い風車(ムーラン・ルージュ)』(1952年、主題曲が非常に有名)、『ローマの休日』(1953年)、『恐怖の報酬』(Le Salaire de la Peur, 1955年)、『男の争い』(Rififi, 1956年)、『悲しみよこんにちは』(1958年)、『テレーズとイザベル』(1968年)。

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『映画でクラシック』 西村雄一郎/著 新潮社 2007年発行
オーリック コクトー、ワイラー、オフュールス ――『ローマの休日 (一部抜粋しています)
ジョルジュ・オーリックは、ジャン・コクトーの処女作『詩人の血』(1930年)以来、『双頭の鷲』(47年)『オルフェ』(49年)など計6作、彼の作品のほとんどすべてに関わっている。
オーリック自身は、作品的に最も重要なのは、『美女と野獣』(45年)だと強調したが、それ以外にも、『トリスタンとイソルデ』を翻案した『悲恋』(43年)もあげた。「この作品は、ジャン・ドラノアが監督していますが、彼は技術を担当しただけで、実質的には、着想、脚本、すべてコクトーの息のかかった作品と考えてさしつかえありません」と言う。
コクトーは撮影中に、自分のアイデァを次々に話し、オーリックはそれを具体化していった。例外は「恐るべき親達」(48年)で、先に音楽を作って、コクトーはそれを後から映像に自由に入れた。「コクトーとはどんな人だったのか?」と質問したら、「アフリカの原住民のような人」と笑った。デザイン、文学、絵画、演出……芸術のすべての感覚が発達しており、ピアノも弾けた。ピアノの前にすわると、ジャズのアドリブのように、曲は明快なリズムを刻み、ちゃんとした音楽になっていたという。
コクトー以外にも、オーリックはさまざまな監督に音楽を提供している。作品的に有名なのは、ウィリアム・ワイラーと共作した『ローマの休日』(53年)だろう。この映画はハリウッド映画だったので、フランス映画2、3本分の資金が費やされ、オーリックも2、3ヵ月ローマに滞在して、かかりきりになった。ワイラーは空軍の士官の時に負傷し、片方の耳が聞こえなくなってしまった。しかも高い音は聞こえるが、弱い方はダメ、そこで、オーリックはピアノの高いキーをたたいて、彼の音楽の打ち合わせを行ったという。
最初、ローマで粗編集のラッシュを見た時は、ストーリーがよく分からない。まとまりの悪い作品だった。ワイラーはメロメロの悲恋物語になるような撮り方をしていたのだ。ワイラーはどちらかといえば、とりまき連中の言う事を良く聞く人だった。「そこで彼らの忠告を聞いて、彼らと一緒にシナリオを直し、編集し直して、ああいうチャーミングな名作ができあがったのです」というから驚きだ。
その逆は、マックス・オフュールスだった。リストやルードウィヒⅠ世の愛人となった実在のダンサー、ローラ・モンテス(マルチーヌ・キャロル)を主人公に据えた『歴史は女で作られる』(55年)は、最初の上映で作品的にも興行的にも全く認められず、プロデューサーが勝手に分かりやすく編集し直して、世に出した産物だった。その後、オフュールスは病気になり、そのことを恨みながら2年後に他界する。「彼とはいくつもの企画を実現しようと約束していただけに、その死は残念でなりません」とその才能を惜しんだ。
オーリックはフランス音楽界の重鎮としてだけでなく、フランス作曲家協会や、国際音楽著作権協会の会長としても貢献している。彼の最も親しまれたメロディー『赤い風車』(52年)の<ムーラン・ルージュの唄>は、スタジオで録音すれば、一度著作料が払われるが、ラジオで何百回流してもタダという現状だった。そんな状況を打開するために、日本に初めて来たこともあったそうだ。