じじぃの「人の生きざま_384_ベラ・チャスラフスカ」

「五輪の名花」チャスラフスカさん死去 女子体操で金 2016年8月31日 朝日新聞デジタ
1964年東京五輪の女子体操で3つの金メダルに輝き、「五輪の名花」「東京の恋人」と呼ばれて日本でも親しまれた旧チェコスロバキア出身のベラ・チャスラフスカさんが30日、故郷のプラハの病院で亡くなった。74歳だった。
http://www.asahi.com/articles/ASJ8053Y5J80UTQP021.html
TOKYO 1964 Larissa Latynina Uneven bars Individual (Amateur Footage) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lsU7r5NwbcI
CASLAVSKA V. 1968 FX 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=4NTFHb4r-oY
ベラ・チャスラフスカ ウィキペディアWikipedia)より
ベラ・チャスラフスカ(Vera Caslavska 1942年5月3日- )はチェコスロバキアプラハ出身の体操選手。
【略歴】
1964年の東京オリンピックで、ベラは人気選手となる。平均台跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられた。
しかし、彼女のメキシコオリンピック参加は、政治的事情のため非常に危ぶまれていた。彼女は1968年のチェコスロバキア民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入、プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。

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『オリンピック裏話 〜あなたもこれで五輪雑学博士』 伊藤公/著 きょうせい 2013年発行
健康を取り戻した体操女子のチャスラフスカさん 2011年10月記 (一部抜粋しています)
1964年(昭和39)年10月、東京ではアジアで初のオリンピックが開催され、日本国中は”世紀の祭典”に沸いた。ハッスルした大島謙吉団長が率いる日本選手団は金16、銀5、銅8の圭29個のメダルを獲得し、アメリカ、ソ連に次ぐ世界第3位の成績を収め、日本人の多くをテレビの前に釘づけにした。
この”世紀の祭典”で日本人にもっとも人気が高かった外国選手は、体操女子のベラ・チャスラフスカ選手(当時、チェコスロバキア)だった。彼女は1メートル59センチと小柄だったが、美しい金髪、大きな瞳、神秘的な笑顔の持ち主で、スピード感あるれる大胆な演技に、多くの日本人は魅了された。彼女はいつの間にか、”東京の恋人”と呼ばれるようになっていた。しかし、その後、彼女には不幸な事件が勃発し、再起不能とまで思われていた。その彼女が健康を取り戻し、2011年10月に来日した。
ベラ・チャスラフスカ選手のことは、55歳以上の方はご存じだと思われるが、それ以下の方は馴染みがないかも知れない。そこで、彼女のことを少し説明しておく。
チャスラフスカ選手が生れたのは1942年5月3日で、2011年10月現在69歳である。彼女がチェコスロバキアの体操女子代表としてオリンピックに初参加したのは、1960年のローマ大会で18歳のとき、チェコは団体で2位になったものの、彼女の個人成績は総合で8位となり、それほど目立った存在ではなかった。
彼女がオリンピックで開化するのは64年の東京大会のときだ。チェコは団体では2位だったが、彼女は個人総合、種目別の平均台跳馬で金メダルを獲得した。ちなみにこの大会で団体優勝をしたのはソ連で、3位は日本。個人総合2位はラリサ・ラチニナ、3位はポリーナ・アスタホワ(いずれもソ連)、また種目別の床運動はラチニナ、段違い平行棒はアスタホワが制している。
チャスラフスカ選手にとって3回目のオリンピックは、68年のメキシコ大会だ。実はこの大会の前に、チェコにとって不幸な事件が起きる。ソ連軍およびワルシャワ条約機構軍がチェコの首都・プラハに押し入り、いわゆる”プラハの春”事件が勃発し、その直後にメキシコ大会が開催される。チャスラフスカ選手たちは練習不足のままメキシコ入りし、大会に臨んだ。チェコの女子チームは団体でソ連に次ぎ2位になるが、チャスラフスカ選手は個人総合で2連覇すると同時に、種目別も3種目を制した。
東京オリンピックの際に、”東京の恋人”となったチャスラフスカ選手は、メキシコ・オリンピックでも”話題に人”だった。彼女は競技終了後、メキシコ市内のチャペルテペック公園内にあるカトリック教会で結婚式を挙げた。相手は東京オリンピック陸上競技1500メートルの銀メダリストで、今回もチェコ選手団の一員のヨゼフ・オドロジル選手だった。
チェコに凱旋したチャスラフスカ選手は温かく迎えられたが、それも束の間のことで、間もなく当局の嫌がらせが始まった。”2000字宣言”に署名したためで、当局より撤回を求められた。しかし彼女は、職を失っても撤回に応じることはなかった。夫・オドロジルと離婚し、69年生まれの長女・ラトカ、75年生まれの長男・マルティンとの3人暮らしは、決してラクではなかった。
ビロード革命”が始まったのは89年11月17日、ヴァーツフラ・ハヴェルが大統領に就任するのは翌90年1月のことで、チャスラフスカは4人に1人の大統領補佐官に選ばれ、同年チェコ・オリンピック委員会会長(93年まで)、95年には国際オリンピック委員会IOC)委員に就任する。
不幸な事件は、そのような時期の93年8月6日夜に、プラハ北の小さな村のディスコバーで起きた。高校生の友達と一緒に遊びに来ていたチャスラフスカの長男・マルティンが、たまたま父・ヨゼフ・オドロジルと出くわし、口論となった。オドロジルは転倒して後頭部を打ち、それがもとで死亡した。
この事件がもとでチャスラフスカは精神的におかしくなり、回復不可能と思われていた。それだけに彼女の元気な姿を見てホッとした人も多かったに違いない。

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