じじぃの「人の死にざま_1285_G・ハリスン」

ジョージ追悼ページ
ジョージ、たくさんの愛と優しさをありがとう。安らかにお眠りください。
http://www.thebeatles.co.jp/contents/george/george_home.html
ザ・ビートルズ ゲット・バック The Beatles Get Back 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=8TgRM22H8Lc
George Harrison Concert for George 29 11 2002 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WEs6rtHsI1w
ジョージ・ハリスン ウィキペディアWikipedia)より
ジョージ・ハリスンGeorge Harrison, MBE、1943年2月25日 - 2001年11月29日) は、イギリスのミュージシャン。ビートルズの元メンバー。
ビートルズの中で】
ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを(後にアメリカのグループ、バーズのサウンドに影響を与えたといわれる)、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れ、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みて、後のラーガ・ロックに大きな影響を与えた。また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。
ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディーラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる(「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「嘘つき女」「恋をするなら」など)。インド楽器の導入と同様、ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かったと思われる。
【1990年代〜晩年】
1997年には、シャンカールのアルバム『チャント・オブ・インディア』をプロデュース。このアルバムの制作に全面的に協力したハリスンの思い入れは強く、彼はシャンカールと共に積極的にプロモーション活動を行った。だが、同時期に喉頭がんが判明し、7月に手術を受けることとなる。その後も放射線治療を続け、1998年に世間に手術の事実が判明した後も、数年間再発は見られなかったという。
しかし、今度は肺がんであったことが判明、さらに脳腫瘍も併発していたことが判明。フランスでコバルト放射線治療を受け療養生活に入るが、世界中のタブロイド誌ではハリスンの体調に関する様々な憶測が飛び交った。本人からは否定のコメントが出されたものの、秋に入ると報道は更に加熱。2001年11月には、各国の大衆紙で彼が危篤状態であることが報じられた。そしてそれから間もない同年の11月29日(日本時間11月30日早朝)、肺がんのため彼は滞在先のロサンゼルスで死去(58歳没)。

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『ロックの名盤! ザ・ビートルズレット・イット・ビー』 スティーヴマッテオ/著、石崎一樹/訳 水声社 2013年発行
誰にとっても厳しいとき (一部抜粋しています)
ビートルズにとってまさに波乱の年、1969年に突入した。遠からず―― 一個人としてもミュージシャンとしても――彼らの人生に大きな変化が訪れることになる。
ジョージ・ハリスンと妻のパティは1966年に結婚すると、サリー州エッシャーのクレアモントにあるキンファウンスと呼ばれるバンガロースタイルの邸宅に居を構えた。この家はジョージが1965年2月に購入したものだ。ポールは1965年3月に買ったセント・ジョンズ・ウッドのキャヴィッシュ・アヴェニューにある家に、まだ居住中だった。少し速足だと5分でアビー・ロードに着ける距離だ。
前の年の10月と11月、ポールはリンダ・イーストマンとその娘ヘザーとともに、かなりの時間をスコットランドで過ごした。1966年、ノース海峡を目と鼻の先に臨むスコットランド東岸の最南端にあるキャンベルタウンに、ポールはハイ・パーク・ファームという、古びた家屋つき200エーカーの土地を購入していた。
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メンバーのなかで音楽的にもっとも大きな変化を経験していたのは、ジョージ・ハリスンだった。彼はこれまでにない高いクオリティの曲を「ゲット・バック」セッションに持ち込むことになる。前年の秋、ジョージはニューヨーク郊外のウッドストックボブ・ディランザ・バンドらと親交を深めていたが、親友エリック・クラプトンとおなじく、彼もこのときザ・バンドの音楽に心を強く動かされた。時流にとらわれないシンプルで飾り気のない彼らの音は、当時の英国のロック界を席巻していたような、ときに独善的ともいえるテクニックの完全主義が作り出す音の対極にあった。クラプトンは、ザ・バンドの音を聴いてクリームを解散させたといわれるが、メンバーのエゴがぶつかり合い、耳をつんざく大音量でいつまでも延々と続くアドリブ合戦、そしてバンドに重くのしかかっていたスーパーグループだというメディアが貼ったレッテルに辟易していたのだった。1968年にボブ・ディランザ・バンドが発表したアルバムを一聴したハリスンもまた、パーソナルで気取らない、アコースティックな音のほうが、もっと自然に自分自身を表現できる可能性があるのではないか、と考えるようになる。その結果、自分のバンドの映画撮影とコンサートに消極的ないっぽうで新たな方向性を希求し、自作曲をより多く作品に収録したいというジョージの思いが、プロジェクトを仕切ろうとするポールの言動と等し並みの大きな影響力を、「ゲット・バック」の撮影とセッションに及ぼすのである。

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ジョージ・ハリスン Google 検索
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