じじぃの「人の生きざま_314_中村・昌枝」

バレー「東洋の魔女」主将、中村昌枝さん死去 80歳 2013年10月3日 朝日新聞デジタル
1964年東京五輪で金メダルを獲得したバレーボール女子の全日本チーム主将、中村昌枝(なかむら・まさえ=旧姓・河西)さんが3日午前0時30分、脳出血のため東京都内の病院で死去した。80歳だった。
http://www.asahi.com/obituaries/update/1003/TKY201310030114.html
河西昌枝 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B2%B3%E8%A5%BF%E6%98%8C%E6%9E%9D/73823
【悲報】バレー「東洋の魔女」主将 中村昌枝さん死去 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UM0elSfxoHk
挑戦ー1964年カンヌ映画祭短編部門グランプリ作品 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo
河西昌枝 ウィキペディアWikipedia)より
河西 昌枝(かさい まさえ、現姓:中村、1933年7月14日 - 2013年10月3日)は、日本の元女子バレーボール選手である。
【来歴】
山梨県中巨摩郡(現南アルプス市)出身。山梨県立巨摩高等学校卒業後、日紡に入社。
東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として、優勝に大いに貢献した。ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた。

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『WILL』 2013年12月号
東洋の魔女が流した涙 東京オリンピック1964 【執筆者】元NHKアナウンサー 羽佐間正雄 (一部抜粋しています)
「日本に再び聖歌灯る!」
あの朗報が流れたのは日曜日の朝まだき、オリンピックという視界のなかでマイクとともに生きてきた私にとっては、格別の思い溢れる9月8日のことだった。そして、それから一月(ひとつき)も経たぬ10月3日、テレビニュースを見ていた私の目と心が、一瞬、凍結された。
中村昌枝(旧姓・河西)の名をアナウンスしている。そして訃報が伝えられたのだ。高速ターンで、私の記憶は1964年(昭和39年)10月に戻っていた。
「赤い旋風」と呼ばれたソビエトを完璧に退け、国中が歓喜の渦に巻き込まれた「東洋の魔女」たちの金メダル。女子バレーのあの決定的瞬間まで、主将・河西昌枝は沈着にゲームを支配する名セッターであった。
「金メダルポイントです……」
大詰めを実況するアナウンスが幾度も流れ、ついに接戦の末、ソビエトを下した金メダル。そして魔女たちの涙また涙……。
NHKの発表では視聴率85パーセントにも及んだようで、国民的行事になってしまった一大ドラマである。アジア初の東京オリンピックを飾るには、もってこいのハイライトであった。
過ぎた半世紀は、遠いメモリーのなかに蹲(うずくま)っている。
「金メダルポイント」のアナウンスで実況を飾った鈴木文弥アナは今年1月、88歳で他界。いままた、大舞台の牽引役を務めたあのキャプテンが天に向かった。享年80。思えば蹲る半世紀は人の情に連れて、必ず非情をも運ぶものだ。
あの東京大会は私にとって、オリンピック中継、夏・冬にわたる11回の道への出発点であった。私はバレーボールの担当ではなかったが、結婚して中村昌枝に姓が変わってからも、幾度かお会いしている。対談もあり、酒処のカウンターもあり。オリンピック噺(ばなし)に華が盛られた。そして、心に残る言葉を蓄えることも、また真実も聞かせてもらったものだ。
あの金メダル獲得の瞬間からコート上で涙に包まれていた魔女たちのなかで、実はこの人だけは涙を流していなかった。知る人ぞ知るそのことに触れたものだ。
「実はですね」
彼女は語った。
「皆は泣いていてもいいのです」
そういいながら、「私の立場はチームをまとめる主将役ですから、あの瞬間から終了の挨拶をするまで、私だけは涙を流してはいけない」と誓っていた、というのであった。
ゲームが終わったあとにもキャプテンは肩書を外してはならない、とこれぞ真の大和撫子作法というべきだろう。

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