じじぃの「人の生きざま_278_平山・郁夫」

平山郁夫氏が死去 文化勲章 日本画の重鎮 79歳 シルクロード主題 2009年12月5日
日本画家で文化勲章受章者の平山郁夫氏が2日午後0時38分、脳梗塞のため、東京都中央区聖路加国際病院で死去した。79歳。尾道市瀬戸田町出身。
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20091207164356699_ja
平山郁夫 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E9%83%81%E5%A4%AB/6080
I am with you 【東儀秀樹】 平山郁夫画伯を偲んで 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XhHZB4VU2Ek
平山郁夫展 編集_0001.wmv 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=T2jCKbhWuE8
平山郁夫と美知子夫人 画像
http://www.unesco.or.jp/kamakura/kaiho/kaiho58/img/kaiho58-11.jpg
日曜美術館 「情熱と美のシルクロード 日本画家・平山郁夫 2007年9月30日 NHK
【ゲスト】平山郁夫日本画家)
現代日本画壇を代表する画家・平山郁夫。およそ40年間にわたってシルクロードを描き続けてきた。それはもはや平山のライフワークであることを超えて、壮大な人類悠久の文明絵巻となっている。シルクロードへの旅は130回を超え、その間に2万点にものぼるスケッチが描かれた。その精髄が平山ならではの美しい画面に昇華するのだ。そこには、確かな命の存在感を描きたいという激しい情熱が秘められている。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2007/0930/
平山郁夫 ウィキペディアWikipedia)より
平山郁夫(1930年6月15日 - 2009年12月2日)は日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。息子はカメの研究で知られる古代生物学者の平山廉(早稲田大学教授)。妻は平山美智子(公益財団法人 平山郁夫シルクロード美術館館長)。
【批評】
日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア中央アジアでの文化財保護活動はアジア諸国、特に中国政府から評価が高く「文化交流貢献賞」が贈られている。またマニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団よりマグサイサイ賞を贈られている。
一方、「文化大革命や都市開発により中国人自身の手によって破壊された中国の歴史的建造物を『戦時中に日本軍が破壊した』として日本人から寄付金を募って中国の文化財の復元事業に当てた」として批判も受けている。「梁思成は日本の古都の大恩人」という根拠薄弱な説に基づいて寄付金を募り、梁思成の銅像建立事業を主導した事も批判の対象となっている。また国立大学(後に国立大学法人)である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展示即売会で多額の利益を上げている点などを批判されることもある。

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文藝春秋 2010年3月号
蓋棺録 「平山郁夫(ひらやまいくお)」 (一部抜粋しています)
日本画家・平山郁夫は、西域をテーマにした独特の画風を確立し、文化財保護にも積極的に貢献した。
東京芸術大学の助手時代、原爆症で苦しみ、極度の貧血状態で死と向き合う毎日が続いた。そんなある日、東京五輪の聖火をシルクロード経由で運ぶという話を新聞で読んだとき、玄奘三蔵法師が馬に乗った情景が心に浮かんだ。
このイメージをもとに描いた『仏教伝来』を院展に出品。美術評論家・河北倫明による「平山郁夫の『仏教伝来』はユニークである」という2行の批評が、平山にこれからも生き続けて創作する勇気を与えた。
1930(昭和5)年、広島県生口島瀬戸田町に生まれる。平山家は350年続く旧家で、師範学校を出た母親に厳しい教育を受ける、幼少時より絵がうまく、姉のエンピツを黙って持ち出して絵を描くので、母親はクレヨンを買って与えた。
広島市にある旧制中学に入学するが、学徒勤労動員で作業中に落下傘を目撃。仲間に知らせるため小屋に走りこんだとき、背後から原爆の閃光を浴びた。15歳だった。
後遺症で苦しむが、中学を4修で終えて、東京美術学校に入学する。同級生に松山美知子がいた。4歳年上の松山は女子美術学校からの転入生で、首席で卒業。次席が平山だった。2人は新制の東京芸術大学に副手として残り、前田青邨に師事する。
あるとき、松山が「友人がいうには、あなたとは話が合うそうよ」と話しかけると、平山は「君と一緒なら、世界を征服できそうな気がする」と答えた。顔が赤かったという。2人は結婚して、青邨の意見に従って妻は絵筆を折り、病気がちな夫の世話に専念することになる。
平山は、芸大の助教授をへて、73年に教授に就任。この間、アフガニスタン中央アジアを取材し、本格的にシルクロードと仏蹟に取り組み始めた。当時としては珍しい中東旅行を準備したのは妻の美知子だった。「旅先でエンピツを削ってくれるのも、炎天下で日傘をさしかけてくれるのも彼女である」。
2000年、奈良の薬師寺に7場面からなる『大唐西域壁画』を奉納する。高さは2メートルを超え、幅は50メートルの大作で、若い日の作品『仏教伝来』に始まった、30年にわたる玄奘三蔵追想する旅の集大成だった。
創作活動と並んで文化財の保護活動に力を注いだ。ユネスコ親善大使や文化財保護振興財団理事長などを務め、積極的に講演会やシンポジウムに参加した。中国の敦煌遺跡のために、個展で絵を売って作った200万ドルを寄付して話題になったこともある。
活動範囲は世界中に広がり、多くの人との交際があったが、その中で平山に生まれた「政治力」が取りざたされた。89(平成元)年から95年まで東京芸大の学長を務める。98年には文化勲章。2001年には再び学長に推される。

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平山郁夫 Google 検索
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