じじぃの「人の死にざま_1177_サムス大佐」

浅野七之助 画像
http://blog.canpan.info/fukiura/img/2638/asano1.jpg
Crawford F. Sams Oral History Interview
http://beckerexhibits.wustl.edu/oral/interviews/sams.html
日本人の生命を守った男 GHQサムス准将の闘い 二至村菁 講談社
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2112191
SCAP/GHQ サムス 連合軍最高司令官公衆衛生福祉局長
クロフォード・F・サムス(1902 - 1994) (Crawford F. Sams)
連合軍最高司令官総司令部公衆衛生福祉局長
日本の戦後の避妊や中絶解禁の法律改正の歴史を調べると、サムスの名前が大きく出てくる。当時の日本の医学会では、それだけ絶大な権力を持っていたのね。大胆な改革をなさったのね。
http://www.eonet.ne.jp/~noranekonote/scapghqsams.htm
ララ物資 ウィキペディア(Wikipedia)より
ララ物資とは、ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)の提供していた日本向けの援助物資のこと。
【概要】
ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に設置を認可した日本向け援助団体。1946年1月22日にアメリカサンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。
当時アメリカにおける対外的な慈善活動は海外事業篤志アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が担っていたが、その対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために新たな援助団体を設立する必要があった。反日感情が残るなかでの「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。
支援物資は1946年11月から1952年6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった。多数の国にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている。
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心であったが、日本国内での物資配付にあたっては連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、アメリカからの援助物資として配付された。
「アイスクリームにチョコレート、日本のみんなに下さった、ララのみなさんありがとう」という歌があったという。

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『栄養学を拓いた巨人たち 「病原菌なき難病」征服のドラマ』 杉晴夫/著 ブルーバックス 2013年発行
サムス大佐が実現した学校給食 (一部抜粋しています)
1946年初頭、終戦後のわが国を視察するため元米国大統領フーバーが国連代表として来日した。彼にはマッカーサーを将来の米国大統領にしたいという意向があった。そこでマッカーサーに、占領行政の実績をあげるべき、食料を緊急輸入するよう強く要望した。さらに、日本の悲惨な状況を世界に知らしめ、救援物質を募るよう提案した。この結果、アジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia、略称LARA=ララ)から莫大な物質がわが国に送られた。その20%は在外邦人からの援助であった。この救援は1946年から1952年まで続けられ、そのうち食料は約1万7000トンに達した。内容は全乳、脱脂粉乳、砂糖、ベビーフード、乾燥植物、大豆、肉、乾燥卵、缶詰、小麦粉など、栄養的にすぐれたものばかりであった。進駐米軍は厚生省に対し、これらの物質の分配を警察の警戒のもとに公平、適切におこなうよう通達し、戦災者、戦争孤児、夫が戦死した妻、外地からの引き揚げ者などのほか定時制高校生、大学食堂にも分配された。筆者を含め、当時学童であったわが国の70歳以上の人々は、ララ物質で飢えから解放された記憶を持っているのである。
フーバーのわが国への飢餓対策は、これにとどまらなかった。彼はこう主張した。
「将来の国を担う飢えた子どもたちに食べ物を与える学校給食は、人道的支援の目的に最もかなったものである」
この号令のもと、わが国で学校給食を実現するための施策が進駐米軍によって開始された。その担当行政官となったのが、クロフォード・サムス大佐であった。
サムスは1902年に生まれ、働いて学資を稼ぎながら、カリフォルニア大学に入学した。卒業後は医師となり、軍医大佐としてマッカーサー元帥に従って、終戦後の東京にやってきたのである。
当時のわが国には、育ち盛りの小学生だけでも1300万人いた。ところが、サムスが学校給食の実施をわが国の各省庁に打診したところ、彼らの反応は冷淡きわまるものであった。農林省の回答は「成人の食料され不足しているのに、子どものために食料を調達することなどできない」というものだった。文部省(現在の文部科学省)の反応は、「給食のために新たに職員を雇う余裕などない」であり、大蔵省(現在の財務省)は「そのような予算はないので不可能」と答えた。
そこでサムスは提案した。
「とりあえず米軍の食料を給食のために給与しよう。日本政府はあとで返してくれればよい」
日本政府の官僚たちは2週間協議すると答えて、返事を先送りした。ところが、2週間後の彼らの返答は「米軍の食料を借りても、将来返せる見込みがない。だから学校給食は不可能である」であった。おそらく官僚たちは給食などという面倒な業務を抱え込むのを嫌い、のらりくらりとかわしていれば、そのうち米軍もあきらめると甘く見ていたのであろう。しかし、サムスはこの返答に対して顔色を変えた。日本の官僚たちは彼の怒りをおそれ、沈黙した。
しばらくして、サムスは最後の提案をした。
「米軍が日本に進駐したときに差し押さえた日本軍物資のなかに、約5000トンの缶詰がある。これを放出しよう。しかし、これだけではとても足りないので、善意で寄せられたララ物質の一部を、学校給食に回すようにとりはからってほしい」
しかし、サムスはわが国の官僚たちには期待せず、みずからララ物質分配の責任者ローズ女史とマキャロップ神父を訪ね、彼の希望を述べた。これに対しローズ女史は、ララ物質から学校給食に必要な量を分配することを快諾した。
その後も、わが国の官僚たちは諸経費の捻出が困難であるとの理由をつけて煮え切らない態度をとりつづけたが、サムスの尽力により、ついに1946年、学校給食は開始された。
同年12月、サムスが文部大臣田中耕太郎らとともに東京の永田町小学校を訪ね、学校給食の現場に立ち会ったときの写真が残っている。
当時は教室に暖房などなく、身を切られるような寒さであった。サムスは外套のポケットに両手を入れているが、子どもたちは厚着をしなくても平気であった。当時の子どもたちはみな、寒さに慣れていた。当時学童であった筆者も、腹はいつも減っていた記憶はあるが、寒かった記憶はない。
学校給食は短期間のうちに、めざましい効果をあげた。やせ細っていた子どもたちは、みるみる元気になっていった。