じじぃの「日本占領・GI・ギブ・ミー・チョコレート!『戦争の文化』」

Pictures of US Soldiers Dating With Japanese Local Girls in 1946


give me chocolate !


Against Occupation Regulation: Pictures of US Soldiers Dating With Japanese Local Girls in 1946

May 06, 2015 Vintage Everyday
Japan after the surrender. Anti fraternization laws (as in force in Germany and Japan) forbade that a US soldier approaching a little too close to a girl from a country "enemy." It was surely not to protect these girls from possible violence, but it was mostly to prevent young Americans will fraternize with "the devil"...
https://www.vintag.es/2015/05/against-occupation-regulations-pictures.html

『戦争の文化(下)――パールハーバーヒロシマ・9.11・イラク

ジョン・W.ダワー/著、三浦陽一, 田代泰子, 藤本博, 三浦俊章/訳 岩波書店 2021年発行

第13章 日本占領とイラク占領 より

日本占領を計画する

占領が始まってから数年間というもの、日本は厄介な課題に直面し続けた。たとえば、降伏の時点で日本軍は700万人近くにのぼったが、その約半数は海外にいた。肉体的にも精神的にも疲れ切った兵士たちを復員させ、そのうえ海外に在住していた数十万人の民間人を日本に引き揚げさせる作業は1947年まで、あるいはそれ以上かかった。降伏後も、栄養失調による死者は続いた。それは行き場のない者が集まる駅のような公共の場所であることが多かった。結核などの病気の発生率は異常に高く、失業と物価高のため、都市住民は1948年頃まで生活に苦しんだ。1949年いっぱいまで、経済は不安定であった。空襲で焼けた都市に新しい住居や仕事場を建てるには時間が必要であった。復興が飛躍的に進んだのは、1950年6月に発生した朝鮮戦争による戦争景気からであった(吉田首相は朝鮮戦争を「天祐神助(てんゆうしんじょ)」と呼んだ。
初期の占領改革のなかには、草の根の民衆レベルまではなかなか根づかないものもあった。そのため、時間がたつにつれて、占領軍当局者のなかに、民主化の進展について厳しい評価をする者も現れた。
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しかし他方では、マッカーサーが日本に上陸した瞬間から、ジャーナリストたちが楽観的で生き生きとした描写の記事を量産していた。しばらくすると、興味を引くタイトルの本が次々と出版された。たとえば、『征服者 お茶の時間』(1946年)、『星条旗のミカド』(1947年)、『マッカーサーの日本』(1948年)、『落ちた太陽』(1948年)、『銀座のポップコーン』(1949年)、『掛け物 戦後日本のスケッチブック』(1950年)、『竹垣を越えて』(1951年。著者は米軍将校の妻)といった具合である。東京滞在の若いUPI通信の記者アーネスト・ホープライトは、日本人女性とアメリカ男性の安直な恋愛物語をいくつか書いて、ちょっとした有名人になった。いずれも英語で書かれた(あるいは口述された)ものだが、すぐさま日本語に翻訳され、日本人女性に熱狂的に読まれた。彼女たちがとくに興味を持ったのは、キスの描写だったという。ホープライトのいちばん有名な作品は『東京ロマンス』といい、1947年4月までに20万部以上が売れた。当時のアメリカの雑誌『ライフ』は、「たぶん現代最悪の小説」と言いながらも、この「異人種間のロマンス」を5ページの写真特集で再現した(ある日本人の男性書評家は『東京ロマンス』を読んで、「アメリカ人の知性は低いとしか言いようがない」と書いている)。
こうした娯楽物が人々の注意を引く一方で、普通の日本人からは、厖大な量のハガキと手紙が占領軍司令部に届けられた。それはマッカーサー個人あるいは司令部宛てのもので、内容はたいてい占領を肯定しており、なかには感情過多なほどに感謝を述べたものや、小さな贈り物が添えられている場合もあった。昼になると大股で総司令部を出てリムジンに乗るマッカーサーの姿を見ようと、日本人が集った(マッカーサーは自宅で昼食をとり、昼寝した)。降伏文書の調印から数ヵ月後には、米軍や民政部門の高官たちの家族が日本に到着した。彼らにとって日本での生活は、エキゾチックでなつかしい人生の間奏曲のような日々として記憶されることになった。日本の有能な中堅官僚はこうした高官たちと親密で有益な関係を結び、彼らの連帯意識は、少なくとも逆コースが始まるまでは一般的に高かった。占領の最初の1年が終わる頃には、日本における社会改革の野心的計画は順調に進んでいるという自画自賛のムードが高まり、実際占領2年目の終わり頃には、日本民主化はおおむね順調に進んでいた。そのなかには、先述の5大改革や農地改革のように真の意味で根本的な改革も含まれていた。
支配の正統性の確保、適切に限定され明確に表現された目標、わかりやすい命令系統と規律、政策の決定と執行における寛容性と柔軟性、国家の建設的行動力への信頼、本国の党派政治に左右されない活動環境、占領政策を受け止める側における、安定的で、活気があり、経験豊かな市民社会の経験――敗北のあと、ラディカルな変革にも順応できた流動的な数年間に重要な改革が実現したのは、このような政治的・市民社会的な条件が日本に存在したからであった。

占領という以上、かつては、こうした条件は当然の前提と思われていた。だが、占領下のイラクにはこうしたものが欠落していたことがわかったとき、逆に日本は例外であるように見えてきたのである。