じじぃの「人の死にざま_1162_隠者ピエール」

Crusades - 1of20 (BBC) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ERKDI-exAoE
The Origins of the First Crusade 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9Ta1I-Q-E1M
十字軍 ウィキペディアWikipedia)より
十字軍(crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。
隠者ピエール ウィキペディアWikipedia)より
隠者ピエール(仏: Pierre l'Ermite、生年不詳 - 1115年7月8日に現在のベルギーのユイ近郊のヌフムスティエ(Neufmoustier)で死去?)は、11世紀末にフランス北部のアミアンにいた司祭で、第1回十字軍における重要人物。十字軍本隊に先立ち、民衆十字軍を率いてエルサレムを目指し、その壊滅後は第1回十字軍にも参加した。

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『教科書では学べない 世界史のディープな人々』 鶴岡聡/著 中経出版 2012年発行
隠者ピエールと民衆十字軍の顛末 「このような栄誉を今までに受けた者を私は知らない」 (一部抜粋しています)
ひと昔前まで忠誠ヨーロッパは暗黒時代と考えられていた。静謐で単調な世界。時代は長く停滞したままであった、という見解がそれだ。しかし、この半世紀で中世史の見方は大きく変わった。いわゆるアナール学派の登場も新しい中世史観をもたらした。マルクス主義のように現代の視点からする予断的な分析と解釈をすてて、何年何月何日のどこかの村の1日を、史料に即して詳細に再現することから時代を再現する。こういう地道な作業によって人々の息づかいが届くようになった。隠者ピエールが民衆十字軍を率いた聖性もそうした視点からとらえ直したい。
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隠者ピエールという男の素姓はよくわからない。1115年に没したといわれるから、11世紀の中頃に生まれたのであろう。11世紀末にはフランス北部のアミアンの司祭であった。
彼と会ったことのあるノジャンのギリベールによれば、ピエールは羊毛のチュニック(2枚の布を使い肩口と両脇を縫い合わせたひざ丈の衣服)を身にまとい、太い手紡ぎの羊毛で編んだ頭巾をかぶり、足まで届くマントを着ていたが、下着はつけず素足でありロバで移動していたという。それに彼は小男だったので、「ちびのピエール」という異名をとった。
小男とはいえこの男の雄弁は群衆に絶大な影響を与えた。ギリベールは、「私はこの男がその説教の成功によって町や村を人々でいっぱいにしているのを目にした。そして夥しい群衆に取りかこまれ、聖徳の評判で喝采されているのを見た。このような栄誉をいままでに受けた者を私は知らない。……」(『十字軍の男たち』レジーヌ・ペルヌー著/福本秀子訳/白水社)と証言している。
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ピエールの呼びかけに応じて夥しい群衆が蝟集(いしゅう)した。豊かな者は武器を携え、敬虔な者は十字架を背負い、貧しい者は殉教の象徴たる棕櫚(しゅろ)の葉を持って。そして、その後ろには彼らの家族や従者たちが続いた。彼らはロレーヌを経てリエージュ、アーヘンへ、1096年4月12日にはケルン近くに露営した。
しかし、先々で彼らは子リストを売ったユダヤ人に報復するため略奪や殺戮を行った。この頃になるとピエールには「文なしゴーティエ」と呼ばれたゴーティエ・サンザヴォワールのような協力者を得た。
民衆十字軍にはどれくらいの人々が加わったのだろうか。年代記作者は6万人というが、今日では2万人ぐらいであろうとされている。そのなかには食い詰めた者、敵地略奪で一攫千金を夢見る者、新天地への入植で新規まき直しをはかろうとする者などの世俗の翌にまみれた者が多かったにもかかわらず、これだけの人々が宗教的な情熱に動かされ聖地奪還の兵士として子y同する決心をしたのは、中世の人々がj文たちは髪と至近の距離にあると感じていたのであろう。
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ピエールの一行も4月20日頃にケルンを出発し、ウルムからバイエルンを通過しハンガリーに入った。ハンガリー王コロマンは十字軍兵士たちの感動的な姿を見て厚遇してくれた。
しかし、この頃から民衆十字軍の士気は急速に低下しはじめた。十字軍には多数の婦女子が同行していたが、彼女らが若い男たちの犠牲となった。さらにブルガリア人と喧嘩を起こし、その腹いせにモラバ川沿いの風車に放火したことから騒ぎが拡大、怒った住民は十字軍の後尾を襲って多くを捕虜にした。
こんなことの繰り返しで、十字軍の士気は日に日に落ちていったが、ピエールの権威でかろうじて軍団としての対面は保持された。そしてついに8月1日、一行もコンスタンティノーブルに到着した。
ビザンツ皇帝アレクシオスの娘で年代記を残したアンナ・コムネソスは「聖なる火のように燃え上がった人々の群れは、ある者は騎乗で、ある者は武器を手に、またある者は食糧を担いだまま”ちびのピエール”の周りに押し寄せました。道という道は黒山の人でふさがれ、人々の顔は喜びにみち、聖地までの巡礼をやりとげようとする情熱がほとばしり出ていました」とこのときの情景を描いている。
一方、皇帝は混乱が広がることを恐れ、厄介払いとばかり船を用意してボスポラス海峡を渡らせ、民衆十字軍はいよいよ敵地に入った。だが、もはや聖地奪還という崇高な情熱は消え失せ、飢えにさいなまれ餓鬼と化した民衆十字軍は町や村を襲って略奪や殺戮を繰り返した。
ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世は反撃に転じた。彼は残る民衆十字軍本体を壊滅させるため間諜(かんちょう)を放って、十字軍の一隊がルーム・セルジューク朝のニカエアを陥落させ略奪を始めているというデマ情報を流した。
勢いづいた十字軍はニカエアにも向かって殺到した。しかし、待ちかまえた伏兵は民衆十字軍に襲いかかり、混乱した十字軍は殺されるか捕虜となり奴隷として売られた。
こうして民衆十字軍は事実上壊滅したが、隠者ピエールはその後も各国の国王や皇帝たちが組織した本来の十字軍の戦闘のなかに立ち現れる。ことにアンティオキアがムスリム勢の包囲下にあったときもその聖性によって兵士たちを鼓舞し、1099年にアスカロンで十字軍が奇跡の勝利をとげたのもイェルサレムでの彼の祈祷のおかげだといわれた。
民衆とともに聖地奪還の待望を果たそうとした彼であったが、聖者の列に加えられることはなかった。1115年7月8日、現在のベルギーのユイ近郊のヌフムスティエで静かな死を迎えたという。

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