じじぃの「人の死にざま_753_サラディン」

SALADIN: the animated series trailer 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=wbTZDlfVTTQ
Saladin the Movie Launch Trailer (2006) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0cd6PC8A08k&feature=related
サラディンのシリア統合 画像
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/saladin1.gif
サラディン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
サラディン(サラーフ・アッ=ディーン、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、エジプト、アイユーブ朝の始祖。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアクルド一族の出自である。
エルサレム王国との戦い】
サラディンは数年ぶりにダマスクスへ帰還し、エジプトに加えダマスクス周辺のシリア南部を接収することが出来た。
このようにしてサラディンはシリア方面へ領土を拡大し、イクター地や騎士などの諸軍を整備して王朝の軍事力を高めた。そして1187年、それをもってエルサレム王国を攻撃し、5月にクレッソン泉の戦いでテンプル・聖ヨハネ両騎士団を殲滅し、7月にヒッティーンの戦いで十字軍の主力部隊を壊滅させたのち、エルサレムを同年10月までに奪還することに成功した。このとき、サラディンは身代金を払えない捕虜まで放免するという寛大な処置を示している。
【第3回十字軍との戦い】
1189年にヨーロッパ諸国はエルサレム奪還のためにイギリス王・リチャード1世を総司令とした第3回十字軍が侵攻してくることになると、さすがのサラディンも一時、アッコンを奪われるという窮地にまで追い詰められた。しかし、サラディンは敵の猛攻に耐え、1192年、十字軍と休戦条約を結ぶことに成功したのである。これにより、エルサレムをはじめとする広大な領土が、アイユーブ朝の領土として確定するとともに、十字軍も往時の勢いを失うこととなった。
しかしこの戦いで精根尽き果てたのか、翌年サラディンはダマスカスにて病死した。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
十字軍を撃退した英雄 サラディン (一部抜粋しています)
十字軍というと、どんなイメージがあるだろうか?
「聖地回復」を目的とした軍が実際に行ったことはイスラム教徒の大虐殺であった。その十字軍を撃退したのがイスラムの英雄サラディンなのである。
イスラム教はキリスト教に遅れること約600年、砂漠の預言者ムハンマドマホメット)によって始められた――ただし、こう書くのは信者ではない人間の書き方で、イスラム教徒(ムスリム)にとっては、ムハンマドが神に選ばれ、神の声を聞いて全人類に伝えた、ということになる。預言者(予言者ではない!)は「神の言葉(命令)を預かった者」の意味である。その神の言葉を、ちょうど速記者が書き取ったように、筆記したのがコーランというイスラム聖典になる。
では、その命令を発した神とは、そもそもいかなる存在か?
この世のすべてを創造した神であり、それがゆえに唯一絶対の神でもある。たとえば釈迦はその前身はインドの小国の王子だった。ということは「人間」であり、それは神の「被造物」(つくられたもの)であって「神」ではない、ということになる。その唯一絶対の神をイスラエル教徒はアッラーと呼んだ。実はこれはユダヤ教とがエホバと呼び、キリスト教徒がキリスト(正確にいうとエホバとイエスは「父と子」にして同体ということになる)と呼んでいるものと同じ神なのである。なぜなら、彼らの神も「唯一絶対にして世界を創造した神」なのだから。
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キリスト教徒はイスラム教徒を「ニセモノ」だと思っていた。しかもエルサレムを占領したトルコ人イスラム教徒はキリスト教聖地巡礼者を虐殺しているという噂まで流れていた。それはまったくのデマだったが、エルサレムを襲った第一次十字軍はそれを信じ、エルサレムにいたムスリムをすべて虐殺した。老若男女すべてである。そして十字軍はエルサレム王国を建国し、ハンマド昇天の跡である「岩のドーム」には金の十字架を立てた。キリスト教の「教会」としたのである。この状態は約200年続く。
サラディン(サラーフ・アッ=ディーン)は1137年バグダッド近くのタクリートに生まれた。少数民族クルド人の出身である。父アイユーブはセルジュク朝トルコの武将であったが、曲折の末シリア軍に参加した。当時、隣国にエジプトには内紛がありこれに十字軍が介入し、エジプトもキリスト教徒の手に落ちるかもしれないという、イスラム教徒にとって危険な情勢であった。青年武将サラディンは、シリア軍の指揮官として十字軍の介入を排除し、エジプトの実質的な君主(スルタン)となった。
シリアとエジプトが、サラディンのもとに統一され、ここに初めてイスラム教徒の十字軍への反撃態勢が整ったのである。
1187年、サラディンはシリアの首都で、最も愛してやまない土地ダマスカスから、イスラム世界に向けて「聖地奪回」の聖戦(ジハード)を呼びかけた。「関ヶ原の戦い」ともいうべき「ヒッティーンの戦い」で十字軍に勝ったサラディンはついに2万の軍勢をもってエルサレムにせまった。エルサレム王国軍は6万の軍勢で籠城したが、サラディンは怒濤の如く城壁を突破し、ついにエルサレム王国のギー王を捕虜とした。
しかし、ここからがキリスト教徒のふるまいと違った。サラディンは王を釈放し、市民派一人たりとも殺さなかった。
殺戮と恐怖に対し愛と仁儀をもってこれに報いたのである。

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