じじぃの「人の死にざま_1136_瀧村・小太郎」

瀧村小太郎(鶴雄)関係文書調査 syoho30-saiho
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/30/saiho_TAKIMU~1.HTM
塚原康子先生(音楽学部・音楽学)が 学生にすすめたい本
http://www.lib.geidai.ac.jp/g-selects/tsukahara-select.pdf
『かくもみごとな日本人』 林望/著 光文社 2009年発行
温容微笑の人 瀧村小太郎(たきむらこたろう、1839 〜 1912) (一部抜粋しています)
『鳴鶴遺稿(めいかくいこう)』という本がある。瀧村小太郎という人の遺詠集で、その息竹男(そくたけお)の編刊にかかる。
瀧村は天保度に幕臣として生を享(う)けたが七十俵三人扶持(ぶち)というから大した身分ではない。しかし、勘定方から右筆(ゆうひつ)に補(ふ)せられ、昼夜眠らずして職務に出精し、遂に抜擢されて奥右筆となり、国事多端の折柄(おりから)東西に疾走する。やがてその人格高潔なるを見込まれたか、徳川の家司(けいし)となって家達(いえさと)に仕え、明治中葉のころには嫡子家正の教育係に任ぜられる。『遺稿』に拠れば、明治22、3年には田安達孝の欧米巡察の旅にも随従している。勘定方出身であり、また勝海舟の会計係もするなど、計数に明るかったが、同時に外国語にも通じていたらしい。しかも、この人は単なるコチコチの石頭というのではなかった。
時に商法講習所(後の一橋大学)の所長として来日した米人ホイットニーの長女クララの日記に瀧村は折々登場し、そこでは一弦琴(いちげんきん)を自作して巧みに演奏したり、横笛やフルートまでも演奏できたということが記されている。
そうして、日本最初の西洋音楽理論書『西洋音楽小解』を撰述(せんじゅつ)し、西洋音楽の楽語(がくご)訳解に努めた。これが音楽取調掛に買い上げられた他、数点の西洋音楽理論書を撰述訳出している。その訳書はいずれも理解が明晰で正確、以て音楽についての知識が豊富であることを窺わせるが、なぜかその後すっかり忘れられてしまう。
『遺稿』に見る彼の歌風はいわゆる月並み調で、特に秀吟というものを得ない。が、その興味は文明開化の新事物に広く及び、蒸気機関だの、電灯だのを多く歌に詠んでいるのは彼の柔軟な心と好奇心を示すものであろう。
また家庭人としての瀧村は常に微笑を堪えた温容善意の人であったと伝える。
     ・
かくて瀧村は終生徳川家に忠を尽くして仕え、明治44年、人生のお手本のような74歳の寿(ことぶき)を全うするのである。