じじぃの「人の死にざま_1102_藤原・不比等」

藤原不比等 - あのひと検索 SPYSEE
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古事記に記された日本が出来るまでの神話 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9sNf1ZPtPv4
高天原神話 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ujopreOSlSM
プライムニュース 「古事記に学ぶ『国柄』 日本人のルーツを探る 神話の自然観と死生観」 2013年8月14日 BSフジ
【キャスター】八木亜希子、反町理 【ゲスト】工藤隆(古代文学研究家 大東文化大学名誉教授)、竹田恒泰慶應義塾大学講師 明治天皇玄孫)
改憲論議において、識者から「伝統や歴史など国柄を盛り込むべき」という意見が出ている。国柄を知る上で参考になるのが、約1300年前に編さんされた日本最古の歴史書古事記」である。それには、神々による日本の成り立ちに関する神話や、その子孫である天皇のことなどが描かれている。
日本再建が叫ばれる今、古事記から国柄を知り、何を学ぶべきなのかを考察する。
前編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d130814_0
後編:http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d130814_1
藤原不比等 ウィキペディアWikipedia)より
藤原不比等(ふじわらのふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月9日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公
【概要】
藤原不比等は、天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。
前述のように不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇落胤であるとの説がある。『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人車持皇子のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。歴史学者の間では皇胤説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる。

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『日本神話の謎を楽しむ本』 鎌田東二/監修 PHP研究所 2012年発行
誰が、何のために作ったのか…神々の物語の本当の楽しみ方 (一部抜粋しています)
今年は『古事記』が編纂されてから、1300年といわれます。それは『古事記』の序に「和銅五年(712)正月」と書かれているからです。それもあって、いま書店に行くと『古事記』のコーナーができていたり、ちょっとしたブームにもなっているようです。
しかし、私はここで、「『古事記』は、ただあらすじを追うだけではもったいない。こう読むと、もっと面白くなる」ということをお伝えしたいと思います。
そのポイントは「『古事記』成立の謎を追い、その謎をふまえたうえで『日本書紀』はじめ様々な書と比べながら読んでみよう」ということです。そうすることで、『古事記』を読み解き、「日本民族の根っこ」を探る知的楽しみは、はるかに増してくるのです。
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いよいよ、この『古事記』がなぜ作られたか、その謎に迫っていきましょう。
先に紹介したように、『古事記』は万葉仮名をふんだんに用いて、「日本の言葉」で物語を残しているところに、大きな特徴があります。それゆえ、いかにも『古事記』には「日本の最も古くからの伝承が、そのまま伝えられている」かのようにも見えます。
しかし私は、基本的に「『古事記』は新しいものだ」と考えています。第一、『古事記』という名称を見てください。「うちが元祖」」とか「古い」などと名乗るところは、だいたい新興勢力が多いのが世の常です。
――こう書き出すと、「やっぱり『古事記』は後の時代に作られた偽書なのか」と早合点する読者もいるかもしれません。それはおそらく違います。現在学界では、少なくとも本文については8世紀(=700年代)初頭以前の成立であるとする見方が主となっています。『古事記』における仮名の用法のなかに、8世紀初頭以前の音韻体系でしか考えられないものが見受けられるからです。
では、何が新しいのか。
例えば、私はいま京都に住んでいますが、京都では若者の和服姿を見かけることが、ままあります。これは彼らが、「あえて古いファッションを身にまとうことが、むしろ斬新で、京都にいる自分たちの存在感を主張できる一番の方法だ」と考えているからでしょう。『古事記』も、ある意味ではそれと同じではないかと思えてならないのです。
当時の知識人たちや、あるいは渡来人の人々にとっては、漢文的に書くほうがはるかに容易(たやす)かったはずです。なのになぜ、「漢文体と日本語表現の組み合わせ」という難しいスタイルを用いたのか。それはあえて、「古(いにしえ)ぶり」にすることで、当時(8世紀初頭)、非常に「新しかった」ものをアピールしようとしたのではないかと思うのです。
いったい誰が、何を訴えたかったのでしょうか。上山春平さんや梅原猛さんなど多くの先学が「キーマンは藤原不比等斉明天皇5年(659)- 養老4年(720))である」と指摘しています。私も、それが最も信頼が置ける説だと思います。
藤原不比等藤原鎌足の息子で、持統天皇文武天皇元明天皇に仕(つか)えて、その後の藤原氏隆盛の基盤を作った人物です。律令体制を整え、国家としての日本を確立するうえでも、極めて大きな役割を果たしました。不比等は、『日本書紀』そして『古事記』の編纂にも大いに関わっていたと考えられます。
藤原不比等が考えていたことは、持統天皇から草壁皇子文武天皇、そして聖武天皇へと連なる、藤原氏が関与する皇統のラインを支え、この皇統と藤原氏を中心にした宮廷の新しい勢力の「正統性」を明徴(めいちょう)にすることでした。そのために不比等は「高天原神話」という新しい神話を作り上げようとしたのではないか――私はそう考えます」

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