ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-0yrnmteVFc
NHKスペシャル 生命大躍進 第2集「こうして“母の愛”が生まれた」 2015年6月7日
https://www.youtube.com/watch?v=W4xtr6QNs5E
赤ちゃん笑う 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XtfBv40tbIM
ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集「旅はアフリカからはじまった」 2012年1月 NHK
人間とは何か。
人間を人間たらしめているものとは一体…。
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h17271AA
特集:人体を変えた二足歩行 2006年7月号 NATIONAL GEOGRAPHIC.JP
二足歩行を始めた人類は、効率的な移動手段と高い知能を得たが、腰痛や難産などの悩みも抱えこんだ。人体の進化と二足歩行の関係を振り返る。
今からおよそ2000万年前、サルに似た私たちの祖先は鎖骨を発達させることで、枝にぶら下がって果実を採る樹上生活に適応した。肩幅が広いのはその名残で、胎児が産道を通り抜けるには、肩の向きを2回も変えなければならない。肩が産道につかえてしまい、腕を動かす脊髄神経の一部が傷つくこともある。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0607/index3.shtml
人間学 ウィキペディア(Wikipedia)より
人間学(独:Anthropologie)は、一般に「人間とは何か?」、「人間の本質とは何か」という問いに哲学的な思考と実証的な調査で答えようとする学問で、通常は哲学の一部門として、哲学的人間学(独:Philosophische Anthropologie)の名で呼ばれることもあるが、民族学、文化人類学、生物学的人間学など、他の諸科学にもその学問分野での人間学を語る人たちも少なくない。
【哲学的人間学の成立】
1928年、ダルムシュタットの郊外にあるカイゼルリンク伯爵の「英知の学校」で、マックス・シェーラーが招聘講演として「宇宙における人間の位置」と題する講演を行い、人間学研究の提言をしたのが、この問題意識の嚆矢だったといわれている。彼によれば、現代はわたしたちが人間とは何かということを全く知らず、かつ、そのことを熟知している時代であるとされ、哲学的人間学は、人間が自身に抱く自意識の歴史について、その自意識が突然に増大し続けている現代の事態を解釈するための学問とされる。この問題について、彼はその著著『人間と歴史』および『包括的人間学からの断章』において、人間の自己像の解釈を、「宗教的人間学」、「ホモ・サピエンス」、「ホモ・ファーベル」、「生の哲学における人間学」、「要請としての無神論における人間学」の5つに類型化し、それぞれに対して同等の現代的アクチュアリティを要求することによって答えようとした。
この講演は、かなりの反響をドイツ語圏の哲学、文化的な世界にもたらし、シェーラーの提言の直後にでたヘルムート・プレスナーの『有機物の諸段階と人間―哲学的人間学入門』は、既にこの言葉を副題に取り込んでおり、その後はアーノルト・ゲーレンの『哲学的人間学』、『人間学の探究』、『人間 その本性および世界における位置』という三部作がこの方面の最大の業績のひとつになる。
アルノルト・ゲーレン ウィキペディア(Wikipedia)より
アルノルト・ゲーレン(Arnold Gehlen)は、ドイツの哲学者で社会学者。
【概要】
ゲーレンの哲学は同時代の多くの保守革命哲学者に影響を与えた。また彼の仕事から広まった「感覚的な過負荷」「脱制度化」「ポスト歴史」などの多くの用語は、ドイツ国内で盛んに用いられた。
【思想】
生物学者のルイス・ボルク (Louis Bolk)、アドルフ・ポルトマン (Adolf Portmann) らから強い影響を受けて、哲学を経験科学として行うとし、主著『人間、その本性と世界における地位』において、人間は、他の高等哺乳類に較べて寒さを防ぐ毛皮もなく、驚くほど長い期間親に保護されなければ生存できないという生理学的欠陥を有した未熟な存在であり、その欠陥を補い生存するために自然を自身の生活に役立つよう造り変えるために「文化」を作り出さざるを得なかった「欠陥存在」であるとした。
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『動物に魂はあるのか』 金森修/著 中公新書 2012年発行
現代の<動物の哲学> (一部抜粋しています)
<動物の哲学>素描の最初に、<動物の哲学>というよりは一種の人間論を配置する。もっとも序章でも述べたように、それは問題の表と裏のようなもので、事実上、それらは共に<議論場>での同じ条理(筋目のようなもの)を必要とする。だからここで取り上げるものは人間論なのだが、見方を変えればやはり一種の<動物の哲学>でもある。私がいま念頭に置いているのは20世紀前半、ドイツで誕生した<哲学的人間学>(Philosophische Anthropologie)と呼ばれる学問系列のことだ。それに帰属する何人もの優れた学者たちは、とりわけ「人間は、どのような意味で他の動物と違うのか」という問いをたてて、それを熟考した。ここでは、彼らの中からただ2人だけ、シェーラー(1874〜1928)とプレスナ―(1892〜1985)をみるだけにしておく。
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プレスナ―は最初生物学を志したが、早くに哲学に転向した。奇しくもシェーラーと同じ年に主著『有機物的なものの諸段階と人間』(Plessner,1928)を公刊する。またかなり時代が下がってからは『人間の条件を求めて』(1961)という、一般向けの評論集も出版している。
彼の学問的履歴は、その思想の中心部分に影響を与えているようだ。シェーラーに比べると、生物学的知見により、近しく寄り添うという姿勢があるために、シェーラーの<世界的解放>という概念がもつ自由度の野放図な大きさに苦言を呈している。いかなる制限もない<世界的解放>があるなどという想定は無理な話で、プレスナ―にいわせるなら、人間は動物性を離れる局面をもっているが、やはり動物であることには変わりがない。ただ、その一方で彼はシェーラーと同方向の主張もする。人間は確かに普通の動物とは違う特性を抱えているからだ。人間は瞬間の欲求と、その充足の中に完全に没入することができず、またそもそも世界の中で出会う対象との間に一種の距離を設定せざるをえない動物だ。<環境世界>の中で安寧とする普通の動物とは違い、人間は本質的に故郷喪失的な性質を抱えている。人間は、世界との間に<媒介された直接性>しかもちえない。例えばそれは人間の言語習得と言語使用にも関わっている。言語は対象を指示するが対象から離れてもいる。また、それは単純な模写というよりは構築的な性格をもつ。人間は世界との間に距離を感じ、またそういう在り方でしかありえない自分をも対象化することで、自分自身とさえ距離を感じる。彼は自分の中心から外れているという<脱中心性>をもつのだ。
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プレスナ―に10年ほど遅れて出されたゲーレン(1904〜76)の『人間』(1940)のことが思い出される。ゲーレンもまた、人間は身体的には鋭い牙も俊足の脚ももたない<欠陥動物>であるにすぎないが、だからこそ言語や抽象能力などの補償手段を発達させることができたのだという主旨の論陣を張った。いわば胎児段階に留まった猿のように、中途半端で無防備な欠陥動物。だが、だからこそ文化で自ら補強する存在としての人間、という描像である。
その後も<哲学的人間学>は、生物学や心理学などの実証科学とは一線を画し、なおかつそれらの実証的知見を適宜吸収しながら、独自の人間論を構築し続けている。経験科学の隆盛を傍目に見つつ、同時にそれとどのように距離設定して<人間の人間性>の在処を探すのかという課題設定には、そもそもなぜその種の距離設定をする必要があるのかという問いかけをすることも可能だ。そしてその問いかけへの解答には、ほぼ必ず或る種の形而上学判断が控えているはずだ、と推定できる。経験科学と形而上学の立ち位置の違いは、現在でも依然として簡単に解消されるような体(てい)のものではなく、そこにこそまさに<人間の人間性>の発現をみることも不可能ではないのである。
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どうでもいい、じじぃの日記。
図書館の中で新刊書コーナーを覗いてみたら、『動物に魂はあるのか』という本があった。
「だからここで取り上げるものは人間論なのだが、見方を変えればやはり一種の<動物の哲学>でもある」
そういえば、去年 NHKで1月から、シリーズで「人類20万年の歴史をたどる ヒューマン」が放送された。面白くて、ずっと観た。
第1集「旅はアフリカからはじまった」でこんなことを言っていた。
人間とチンパンジーの違いはどこにあるのか。巨大な脳に違いがあるのではなく、なんと、骨盤に違いがあったのだ。チンパンジーと比べると人間の骨盤は横長になっている。骨盤が人間とチンパンジーの出産方法に大きな違いを生じた。骨盤は横長なので、胎児の頭と肩をうまく回転させないと産むことができない。人間の赤ちゃんの出産は難産で人の助けを必要とした。集団で協力し合って赤ちゃんを育てるようになった。
「人間は身体的には鋭い牙も俊足の脚ももたない<欠陥動物>であるにすぎないが、だからこそ言語や抽象能力などの補償手段を発達させることができたのだ」
人間の赤ちゃんが産まれたときは、<欠陥動物>なのだ。
そして、そんな<欠陥動物>の赤ちゃんをそばにいた人間が協力して、育てた。
なるほどなあ。そんな気がする。