じじぃの「人の死にざま_1064_渡辺・晋」

渡辺晋 - あのひと検索 SPYSEE
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60年代 70年代グラフィティ Vol.17 -1961〜 part.3 シャボン玉- 動画 YouTube
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ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜前編 動画 FC2
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渡辺晋 ウィキペディアWikipedia)より
渡辺晋(わたなべしん、1927年3月2日 - 1987年1月31日)は、実業家・芸能プロモーター。ベーシスト。日本の芸能事務所の草分け的存在である渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。
妻は渡辺プロダクション代表取締役会長の渡邊美佐ワタナベエンターテインメント代表取締役社長、渡辺プロダクション副社長の渡辺ミキは長女。トップコート代表取締役社長の渡辺万由美は次女。フジテレビプロデューサーだった吉田正樹ワタナベエンタ会長はミキの夫にあたる。
【来歴・人物】
東京都出身。早稲田大学法学部在学中の1951年、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、南広(ドラム)らと『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。渡辺自身当初音楽はど素人であったが、日本銀行に勤務していた実父が公職追放に遭い学費が払えなくなり、月謝や生活費を稼ぐために大学の先輩の薦めでベースを始める。リーダーとしてベースを担当して人気を集めた。
やがてジャズミュージシャンの収入の不安定さや仕事のきつさ、福利厚生の薄さ等を目の当たりにしたことなどからプロダクション経営を考え始め、1955年4月、妻・美佐、松下治夫とともに渡辺プロダクションを設立。当時、芸能人の地方公演はそれぞれの土地の興行師が実権を握り、不明朗なことが少なくなく、それをタレントを抱えた自分のプロダクションの手で行い、利益と権利を確保しようという狙いがあった。それまではレコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、芸能界初の月給制を導入。さらにこれまでレコード会社で行われていた原盤制作を系列の渡辺音楽出版の手で作らせ、プロダクションに莫大な利益をもたらすようにした。こうして巨大化した渡辺プロはナベプロ帝国と呼ばれ、渡辺は芸能界のドンとして君臨するようになった。
政財界にも強力なコネクションを持ち、マスメディアがナベプロを批判することはタブーとなった。面倒見がいいことで知られ、中尾ミエ梓みちよも渡辺の家に住まわせていた時期があった他、学生タレントの学費や家の建築費等も事務所が負担した事もあったという。一方で仕事に対しては非常に厳格な事で知られ、重役会議等でもタレントの売り出し方や曲の詞やタイトルの意味、楽曲の曲調、コンセプトにいたるまで厳しく詰問する事が多かったという。
また先見の明も優れており、当時異端視されていたロカビリー、ジャズ、ソウルミュージック、ゴスペル等を当初から高く評価、何れも自社の若手歌手に歌唱させ流行させたばかりでなく、その後の長きに渡り定着させる礎を築いた。
渡辺プロダクション ウィキペディアWikipedia)より
いまも斯業では国内有数の規模を誇る同社だが、1960年代から1970年代にかけて「渡辺プロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの「一人勝ち」状態を誇っていた。ハナ肇とクレージーキャッツザ・ピーナッツザ・ドリフターズ(これら3グループを総称し「渡辺プロ3大タレント」と呼ぶこともあるが、ザ・ドリフターズはナペプロ創成期から在籍していた前者二組の後輩にあたり、さらに1979年に系列事務所「イザワオフィス」に移籍しているため、クレージーキャッツザ・ピーナッツで2大タレントではないかという声やザ・タイガースキャンディーズも入れるべきだという評論家の声も根強い)、園まり、沢田研二布施明、森進一、小柳ルミ子天地真理キャンディーズ等の大スターを多数抱え、番組も多数制作した。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「渡辺晋 王国を作った男」 【執筆者】中尾ミエ(歌手) (一部抜粋しています)
私にとっては、とても居心地のいい事務所だったと今でも懐かしく思い出します。中学卒業と同時に歌手活動をしていた私に、知人が紹介してくれたのが晋社長との出会いでした。といっても、「明日から事務所に来なさい」と言われただけ。早大法学部在学中に松本英彦さんや中村八大さんらと「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成した社長は、当時もバンドマンをしながら事務所を立ち上げ、掛け持ちで誰よりも忙しく働いていました。
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私がお世話になった頃は、ナベプロの大きな転換期でもありました。営業中心の仕事から、レコードの原盤製作も手掛け、テレビや映画の世界にも進出します。クレージーキャッツやピーナッツがテレビで脚光を浴び、「シャボン玉ホリデー」などナベプロ制作の番組を持つようになっていました。私もクレージーの面々と共演させてもらいましたが、テレビの打ち合わせはよく社長宅で行われていました。時間に関係なく人が常に集まってきて、夜中から朝方まで飲んだり食べたりしながら仕事の話をしていました。
テレビ進出に合わせるかのように芸能界の「ダーク」なイメージをクリーンにしたのも社長でした。政治家とのパイプもあって、夏になると軽井沢でナベプロ恒例のイベントがあったのですが、終わると全員で当時の首相だった佐藤栄作さんの別荘に招待されたのを覚えています。
社長は「これからはマネージャーも育てる」とよく言っていましたが、芸能事務所で大卒の採用を始めたのもナベプロが先駆けだったのではないでしょうか。私は、社長のマネージャー教育が功を奏した結果が今の芸能界だと思っています。プロダクション社長で、ナベプロ出身者は数多くいて、政界でいうなら「松下政経塾」みたいなものでしょうか。晋社長が築き上げたものは番組制作ばど新しいプロダクションの形だけでなく、人材という財産だったのだとも思います。
私がナベプロからの卒業を考えたのは、1987年に社長が皮膚がんのため59歳の若さで亡くなったのがきっかけでした。手術後、右頬がえぐれるほどの傷跡が残ったのですが、社長は躊躇なく現場に復帰しました。平然と仕事をしている姿に、社長の凄さを改めて感じました。亡くなるまで「痛い、つらい」という言葉は一度も言わなかったと聞きました。
晋社長を語る時、欠かせないのが美佐さんです。晋社長が外交の仕事で奥さんが事務所内の仕事とバランスよく分担していたのも会社が成功した大きな要因だと思います。
晋社長の公私にわたる片腕だった奥さんの美佐さんと2人の娘さんが会社を継ぐということで、私みたいなうるさいおばさんがいたのでは娘さんがやりにくいだろうと思い、円満に退社、独立したのです。
私の夢は歌手、裏方を含めすべてのナベプロ卒業生の同窓会。実現したら、さぞかし壮観でしょうね。

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