じじぃの「人の死にざま_1063_フリッツ・ハーバー」

Fritz Haber Documentary 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=B1zjHOoFJxA
"Haber" Trailer - SJIFF09 Official Selection 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9vBNzI88qpg
フリッツ・ハーバー ウィキペディアWikipedia)より
フリッツ・ハーバーFritz Haber)は、ドイツ(現在のポーランドヴロツワフ)出身の物理化学者、電気化学者。ユダヤ人から改宗したプロテスタントである。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。
【経歴】
ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学で学び(当時のドイツでは途中で大学を変えるのは珍しいことではなかった)、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った。
兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーベルマン(英語版)に学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった。
さらに1898年には、電気化学の教科書となる『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版した。当時ハーバーはこの分野における経験が浅かったため、執筆に当たっては、同僚からは恥をかくことになるから思いとどまるよう言われた。しかし結果的にはこの教科書は好評で、ブンテはもとより、オストヴァルトからも評価された。そして同年、助教授となった。。1901年には、兵役期間中に知り合ったクララと学会で再会し、同年に結婚、翌年には長男を出産した。
1904年に平衡論を利用した窒素分子からのアンモニアの合成法の開発に着手した。これは1912年にBASFで実用化され、現在ハーバー・ボッシュ法として知られている。1906年はにカールスルーエ大学教授となった。
第一次世界大戦が勃発すると、ドイツに対する愛国心の強かったハーバーは従軍を志願した。しかしその願い出は却下され、代わりに軍からガソリン凍結防止用の添加剤の開発を命じられた。そして、その問題を解決した後にハーバーが関わったのが、毒ガスの開発であった。
ハーバーが指揮した毒ガス作戦は、4月22日にイープル地区で実行に移された。この時は大きな成果をあげたが、作戦を続けてゆくうちに連合国側も対応しだし、しだいに当初のような成果をあげられなくなっていった。一方で毒ガス作戦は国際的な非難を浴びた。また、ハーバーの周囲でも一部に反対意見があった。カールスルーエ大学の同僚であるヘルマン・シュタウディンガーがそうであったし、妻クララも夫が毒ガス兵器の開発に携わることに反対し続けた。そしてついには5月2日、クララは抗議のために自ら命を絶った。

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『面白くて眠れなくなる化学』 左巻健男/著 PHP研究所 2012年発行
毒ガスを開発したユダヤ人化学者 (一部抜粋しています)
ドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868 - 1934)はユダヤ人ということが不利になってなかなか大学の助手のポストにつけませんでした。彼は30歳で何とか大学の助手に採用されると猛烈に研究を開始します。
1906年、ハーバーがようやく化学の教授職についたとき、彼の関心は当時の化学界最大のテーマ、空気中の窒素を化合物として固定することに注がれました。
当時の窒素肥料は、硝石(硝酸カリウム)やチリ硝石硝酸ナトリウム)でした。農作物を育てるとき、成長するのに必要な養分のうち、細胞のタンパク質合成に欠かせない窒素はもっとも不足しがちです。
窒素は空気中に多くありますが、肥料としては硝酸塩やアンモニウム塩など窒素化合物の形にしなければ植物は吸収できません。このため、天面に産するチリ硝石や石炭の乾留時の副産物として得られるアンモニアが産業の原料や肥料に用いられてきたのです。そのために、南米チリからチリ硝石が大量に輸入されていましたが、資源の枯渇が心配されていました。
それならば空気中に体積で5分の4を占める窒素を利用できないか――。
多くの化学者の挑戦が失敗に終わるなかで、ドイツの化学メーカーBASF(バスフ)社のC・ボッシュの技術協力により、最終的にはハーバーとボッシュの方法が工業化へと進んだのです。
それは、当時の化学工業界では経験のない200気圧という気圧と、摂氏550度という高温で窒素と水素を反応させる方法です。一番大変だったのは高温・高圧に耐える反応装置の開発でした。
その反応装置の開発はボッシュの担当でした。ボッシュは鉄製に反応装置が突然破裂して命拾いをしたこともありながら、やがて高温・高圧にびくともしない反応装置をつくりあげたのです。
ハーバーとボッシュアンモニア合成法の成功で、ドイツのみならず世界の食料増産の大功労者になりました。この業績によりハーバーとボッシュはそれぞれ1918年、1931年にノーベル化学賞を受賞しています。
1913年、ドイツではハーバーとボッシュの方法によって空気中の窒素を使ってのアンモニア製造の工業化が始まりました。その年の夏にオッパウの工場でアンモニア製造が始まったのです。アンモニアからは硝酸をつくることができ、硝酸からは火薬類をつくることができます。
そして1914年末、第一次世界大戦が勃発しました。
アンモニア合成がハーバーとボッシュによって成功したとき、当時のドイツ皇帝は「さあ、これで安心して戦争ができる!」と語ったという伝説があります。
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1915年4月22日、ベルギーのイープル。ドイツ軍とフランス軍のにらみ合いのさなか、ドイツ軍の陣地から黄白色の煙が春の微風に乗ってフランス軍の陣地へと流れていきます。
煙が塹壕の中に流れ込んだ途端、フランス軍の兵士たちはむせ、胸をかきむしり、さけびながら倒れ……阿鼻叫喚の地獄絵そのものに変わりました。
ドイツ軍が170トンの塩素ガスを放出し、フランス兵5000人が死亡、1万4000人が中毒となった史上初の本格的な毒ガス戦、第二次イープル戦の様子です。
この毒ガス戦の技術指揮官こそハーバーでした。「毒ガス兵器で戦争を早く終わらせれれば、無数の人命を救うことができる」というのが、ハーバーが毒ガス兵器開発に他の化学者を巻きこんでいったときの説得の論理でした。
毒ガス利用の化学戦がいかに悲惨なものかを知っていたハーバーの夫人、化学者クララは、化学戦から身を引くように夫に懇願しました。しかし、ハーバーは聞き入れません。
「科学者は平和時には世界に属するが、戦争時には祖国に属する」「毒ガスでドイツは迅速な勝利を得る」と言って東部戦線に出発して行きました。クララは、その夕方、自らの命を絶ったのです。

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