じじぃの「人の死にざま_1037_A・レーウェンフック」

アントニ・ファン・レーウェンフック - あのひと検索 SPYSEE
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Lens On Leeuwenhoek 動画 YouTube
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MicrobiologyBytes: Antonie van Leeuwenhoek 動画 YouTube
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アントニ・ファン・レーウェンフック ウィキペディアWikipedia)より
アントニ・ファン・レーウェンフック(Antoni van Leeuwenhoek、1632年10月24日 - 1723年8月26日)はオランダの商人、科学者。歴史上はじめて顕微鏡を使って微生物を観察し、「微生物学の父」とも称せられる。
【業績】
レーウェンフックは専門的教育を受けていなかったが、自作の顕微鏡で大量の生物学上の発見をした。彼の顕微鏡は、径1mm程度の球形のレンズを、金属板の中央にはめ込んだだけの単眼式のものであった。資料を載せる針はねじ式に微調整できるようになっていた。生涯に作った顕微鏡の数は500にもなるとも言われる。それらを用いて身近なものを覗いて回り、様々なものを見て感動していた。この中には、当時の生物学専門家には知られていなかった新発見が多数含まれていたが、彼はそれらの成果を発表する場を持たなかった。
レーウェンフックの観察をロンドン王立協会に紹介したのは、デルフトの解剖学者ライネル・デ・グラーフが送った1673年の書簡が初めである。

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アシモフの科学者伝』 アイザック アシモフ/著 小学館 1995年発行
アントニ・ファン・レーウェンフック――目に見えない世界の発見者 (一部抜粋しています)
アントニ・ファン・レーウェンフックは、学校には数年しか通っていない、無学な服地商だった。が、コロンブスが発見したアメリカ大陸よりも、もっと驚くべき新世界を発見した。彼は趣味として小さなガラスのレンズを作っていたが、ある日、よどんだ水の一滴を自分のレンズで観察した。彼以前の誰ひとりとして、見たことも想像したこともないものが、そこにあった。小さすぎて肉眼では見えないような微小な動物が、その一滴の水の中を動きまわり、エサを食べ、生まれたり死んだりしていた。彼らにとっては、この一滴の水こそが全世界であった。
ファン・レーウェンフックは、1632年10月24日、オランダのデルフト市に生まれ、90歳で死ぬまで、ずっとデルフト市に住んだ。彼は16歳のとき、父と死に別れ、そのとき学校をやめて、服地屋の店員になった。のちに、デルフト市役所の管理人に任命され、死ぬまでその職についている。
彼には趣味があった。それは、小さく完全なレンズを作ることだった。彼が作ったレンズの中は、直径わずか3ミリほどの小さなものであった。が、それは、像をゆがめることなく、物体を200倍に拡大することができた。
レンズがものを拡大して見せてくれることは、もちろん誰もが知っていた。しかし、ほとんどすべての科学者たちが、ありきたりのレンズしか持っていなかった。ファン・レーウェンフックは、すばらしいレンズを作り、そのレンズを銅や銀や金の長方形の板にとりつけた。そして、見たいものをレンズの片側に固定し、何時間ものあいだ。それを見つめた。しばしば彼は、標本を何ヵ月間もくっつけたままにしておいたし、そのままいつでも取りはずさないこともあった。ほかのものを見たいときには、彼はもう1つ新しいレンズを作った。こうして一生のあいだに、彼は419個のレンズを作った。
虫、水滴、歯石、肉、毛髪、種子など、ありとあらゆるものを、彼は観察した。見たものについては、絵を描き、念を入れて正確に描写した。
1665年、ファン・レーウェンフックは、生きた毛細血管を観察した。動脈と静脈とをつなくこの小さな血管は、すでに4年前にイタリア人によって発見されていた。しかしファン・レーウェンフックは、血液がその毛細血管の中を流れるのを、はじめて見た。そして1674年には、血液を赤い色にしている赤血球を発見した。
1683年には、細菌を見つけた。それは彼が発見したものの中で、もっとも重要と思われるものだった。細菌があまりにも小さくて、彼のレンズを使っても、はっきりと拡大して見ることはできなかったし、また彼はこの発見の重要性に気づいてもいなかった。
このようないろいろな発見を彼は秘密にしていたわけではない。1660年、イギリスの国王チャールズ2世は、科学に興味を持つイギリス人たちを励まして、公式な協会を作らせた。その会には長い名前がついているが、ふつうは簡単に王立協会と呼ばれている。
ファン・レーウェンフックは、自分のレンズと、それを使ってみたものについて、こまごまと長い手紙を書き、王立協会に送った。協会の人たちは驚き、最初は彼が書いてきたことを信じたくはなかったようである。しかし、1677年、王立協会のロバート・フックがレーウェンフックの説明のとおりに顕微鏡を製作し、ファン・レーウェンフックが見つけたといっているものを、自分自身で発見した。
その後、ファン・レーウェンフックは、26台の顕微鏡を王立協会に贈った。おかげで王立協会の人たちは、自分自身ですべてのものを見ることができた。フックの実験と、とくにこの顕微鏡寄贈のおかげで、その後はもはやなんの問題もなかった。
1680年、ファン・レーウェンフックは王立協会の会員に選ばれた。ろくに学校にも行かなかった服地屋が、王立協会のもっとも有名な外国会員になったのである。長い生涯のあいだ、ファン・レーウェンフックは、ぜんぶで375編の研究論文を協会に送り、27編の論文をフランスの科学アカデミーに送った。彼は一度もデルフトを離れたことがなかったが、その業績のため世界的に有名になったのである。
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ファン・レーウェンフックは、はじめて顕微鏡を作ったわけでも、それをはじめて使ったわけでもない。しかし彼は、顕微鏡を使えばどんなことができるかを、実際にやってみせた最初の人であった。彼は、はじめて顕微鏡をうまく使いこなし、その結果、今日の生物学のほとんどすべての分野の基礎を、独力で築いたのである。

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