スティーブン・フォスター - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/11761/
おお スザンナ (フォスターの名曲) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=YcBQYwcA4T8&feature=related
安倍美穂先生作品特集/草競馬 演奏:安倍 美穂 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=z90tOXzZRt8&feature=fvwrel
フォスター特集 「アメリカ民謡の父」
http://www.worldfolksong.com/foster/index.html
スティーブン・フォスター ウィキペディア(Wikipedia)より
スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレル歌曲である。多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。「アメリカ音楽の父」とも称される。
【死去】
1864年1月10日、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの13日に発熱と出血多量で死亡した。数日前から発熱しており、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されている。37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけであった。1862年の作品「夢路より」が発表されたのは死後2ヵ月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『音楽奇談――今だから語れる本当の話』 大日方俊子/著 ヤマハミュージックメディア 2012年発行
「アメリカ民謡の父」の遺産は38セント (一部抜粋しています)
「アメリカ民謡の父」の父と呼ばれるスティーブン・フォスターは、1828年7月4日、アメリカ合衆国独立50年祭の日にペンシルベニア州のルイスヴィルで生まれた。アイルランド移民の曽祖父の血を引く比較的裕福な家庭の10人兄弟の末ッ子であった。
フォスターは兄の蒸気船海運会社で簿記係をしていたが、会社がある地域は南部の黒人音楽や荷揚げ労働者の歌があふれていた。この頃書いた「おお スザンナ」はカリフォルニアのゴールドラッシュの賛歌として歌われ、二グロ・スピリチュアルの影響を感じとれる。当時は黒人たちの日常生活を歌った曲が珍しかったことから、フォスターの曲は白人たちにも人気があった。
1950年にはピッツバーグの医師の長女ジェーンと結婚した。ジェーンは明るい性格の素晴らしい女性で、型破りの芸術家タイプで酒を好むフォスターは、理想的な夫ではなかった。
その後フォスターはニューヨークに出て、次々に曲を出して売れッ子になるが、両親と兄の死をきっかけに、彼は借金を負うほどの逼迫(ひっぱく)した経済状態に追い込まれた。出版社からのわずかな支払いで生活していたが、ついには自分の曲をすべて売却する事態にまで陥ってしまった。フォスターはひどく落ち込んだが、ジェーンは電信技師の仕事をして夫を支え続けた。
200曲もの名作を残したフォスターがこれほどまでの窮状に陥ったのにはいろいろな理由がある。当時のアメリカでは、作曲家という職業は、社会的に認められていたが、安定した職業ではなかった。音楽著作権法もなく、出版社の印税も名ばかりで少なかった。
多くの出版社がフォスターの曲を競って出版していたため、違う出版社から同時に同じ曲が出版されることもあったが、フォスターには1セントもお金は支払われなかった。「おお スザンナ」は3年間に、なんど16社から30種類もの楽譜が出版され、5000部も売れれば、大ヒットと言われた時代に、10万部も売れたのだ。しかしそれでも、フォスターに渡されたのはたった10ドルだった。
・
生活苦の破手に妻子は去り、ひとりになったフォスターは酒に溺れ、放浪者扱いをされるほど落ちぶれた。彼は廃屋のような家の地下室に寝泊まりし、近くのレストランのマネージャーの好意で料理のほどこしを受けていた。
1964年1月10日にマンハッタンのノース・アメリカン・ホテルの一室で粉々に砕けた洗面台の脇に倒れていたフォスターを発見したのは作詞家のクーパーだった。頭部と頸部から大量の出血があったため、ベレビュー病院に運ばれたが、3日後に他界した。残されていたのは、わずか38セントのコインと「dear friends and gentle hearts:親愛なる友とやさしき心」と記されたメモだけだった。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
スティーブン・フォスター Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC&gs_upl=0l0l1l410571lllllllllll0&sa=X&oi=image_result_group