じじぃの「人の死にざま_988_藤山・一郎」

藤山一郎 - あのひと検索 SPYSEE
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藤山一郎 スペシャ 動画 YouTube
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青い山脈 藤山一郎 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=P-QUP13GAeA
藤山一郎 「長崎の鐘 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MCdT05hLYFA
藤山一郎 ウィキペディアWikipedia)より
藤山一郎は、日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名は増永丈夫。本名ではクラシック音楽声楽家バリトン歌手として活躍。東京府東京市日本橋区蛎殻町(現:東京都中央区日本橋蛎殻町)出身。東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽部)卒業(首席)。東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。作曲家・指揮者としても活躍した。1992年(平成4年)、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した。元参議院議員の加納時男は甥。

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文藝春秋 2012年9月号
国民栄誉賞の昭和史④ 「藤山一郎 最後の『国民的歌手』」 【執筆者】鴨下信一(演出家) (一部抜粋しています)
藤山一郎(1911〜1993)は昭和の流行歌、いや今回は大衆音楽といおう、その大歌手だった。本名・増永丈夫、こちらでは声楽家として記憶されたかったはずだ。
もう昔だから、唱っているのをナマではもちろん、テレビでも見たことのある人は少ない。それでも大晦日紅白歌合戦の最後、全員で「蛍の光」を唱う時、年かさで小柄で、髪はウスくなっているがダンディな男性が、舞台にいきなり現れて指揮をするのにびっくりした覚えがある人、これはけっこういるに違いない。あれが藤山一郎である。
背をシャンと伸ばした律義で端正な棒(バトン)だった。歌も、唱う姿も、あの通りだったと思ってもらいたい。
功なり名を遂げた人で、国民栄誉賞も芸能人ではこの人と森光子だけが生前授与である、死の1年前に表彰された。車椅子で総理官邸へ入ったが、立ち上がって賞を受け、無伴奏ベートーヴェンの「歓喜の歌」を唱ったと伝えられる。死の直前まで仕事をしていたというのも幸せな話だ。
困ったことにこの人、面白いエピソードがない。いや一つある。例の「蛍の光」を指揮する時、たいていは自分でも唄うのだが、最初の<蛍の光>のところで決して唄わなかった。「蛍」のフシ付けが日本語のアクセントと違うからイヤだというのが理由だった。
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藤山が初吹込したのは、当時唯一の官立の音楽学校だった東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)在学中だったが、非常に完成された唱い方だった。まだ20歳になったかならないかの若さである。
  影を慕いて
1 まぼろし
  影を慕いて 雨に日に
  月にやるせぬ 我が思い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦(こが)れつつ 忍び泣く
2 わびしさよ
  せめて痛みの なぐさめに
  ……(以下略)
3 君故(ゆえ)に
  永き人生(ひとよ)を 霜枯れて
  ……(以下略)
藤山は後輩に「まぼろしの」と「影を慕いて」を続けて唱ってはいけない。「まぼろしの」は全体にかかる詞で「影」の形容句ではないからだ。「わびしさよ」も「君故に」も同じ。譜面をよく読みなさい、と教えた。
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戦前の、いわゆる大衆音楽の代表が「影を慕いて」なら、戦後のそれは文句なく「青い山脈」(1949年 詞・西条八十 曲・服部良一)だ。いろいろなランキングで一位を占めている。この両方を唄っているところが藤山が「昭和の歌のキング」なるゆえんだ。
もともとは知ってのとおり同名映画(監督・今井正)の主題歌で、奈良光枝とデュエットしている。映画も名作で原節子池部良杉葉子竜崎一郎、の校医、小暮実千代の芸者まで若々しかった。軽快な音楽にのって主人公たちが自転車に乗って現れると(いまだにパロディをCFでやっている)戦後復興の青春の息吹きがスクリーンから溢れ出るようだった。
現在の目で見て面白いのは出演者が若くも何ともないことだ。池部良は復員時大尉で30過ぎ、竜崎一郎はもっと上で40近く、原も小暮も年増といっていい年齢で小暮は引揚げ者だった。藤山もいまふうにはアラフォーだ。しかしその歌声の若々しさといったらない。日本の戦後の奇跡の復興は世代によらない若さによってもたらされたことがよくわかる。
  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ
  ……
  なぐさめ はげまし 長崎の
  あゝ 長崎の鐘が鳴る
この歌を覚えているだろうか。「長崎の鐘」(1949年 詞・サトウ・ハチロウ 曲・古関裕而)だ。
妻を喪い、自分も原爆症となって命の果てを予告された長崎の医師永井隆の、幼い子たちを残してゆく無念とキリスト者としての理念を書いた文章から生まれたこの歌は全国民的な感動をまき起こした。
藤山一郎は国民的歌手となった。
ぼくはこの歌では記憶違いをしていて、コーラス付きだと思っていた。「あゝ 長崎の」がコーラスで、その中から藤山のソロ「鐘が鳴る」が聞こえてくる。聴き直すまでそう思っていた。「青い山脈」もコーラスとソロのかけ合いのように覚えていた。
間違いだが、藤山の後ろに「大勢の日本人がついている」というイメージがずっとあったのだろう。藤山の唱法がそうさせたのだ。

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