川上宗薫 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%AE%97%E8%96%AB/2841/
川上宗薫『感度の問題』 新潮社
体をあわせてはじめてわかることもある。男と女の「感度」を追及した官能小説集。
http://www.shinchosha.co.jp/book/865057/
川上宗薫 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (一部抜粋しています)
川上宗薫は、愛媛県生まれの小説家。本名はむねしげと読み、筆名もむねしげと読ませていた時期がある。
【作品への評価と人物像】
ポルノ小説を書くにあたってもかならず「取材」をした。その際の女性と交渉を「仕入れ」、女性器を「構造」と詠んだ。
床上手としても名を馳せ、友人の吉行淳之介から「君の小説は全て実体験を書いているが、作品の中で女性が失神を繰り返すのを読むと、こんなことはあり得ないと思う読者もいるんじゃないかと思うんだ」と言われた時は「そういうことはむしろ控えめに書いている方だから」と笑って答えた。女性雑誌に「お手伝いさん募集」の広告を出した時には、川上に手を付けられることを期待した全国の女性から応募が殺到したこともある。「性豪」と呼ばれることもあったが、実際には身長163センチ、体重55キロの小柄な体格だったので、初めて会った女性から「もっと大きい人かと思ったわ」「もっとギラギラした感じの人かと思ってました」と言われることが多かった。
プロレスも好きであったが、「誰が一番強いか」という話題にこだわり、話相手となった村松友視を閉口させた。
また、晩年も、糸井重里の「萬流コピー術」に一参加者として参加して師範となったり、やはり糸井の企画「夕刊イトイ」に参加するなど、旺盛な好奇心を持ち続けた。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
川上宗薫(かわかみそうくん) (1924 - 1985) 61歳で死亡。(一部抜粋しています)
官能小説の大家、川上宗薫は死の2日前まで口述筆記を続け、多数の闘病手記を週刊誌に寄せた。それは「この今でなければ書けぬことがある」という作家としての姿勢だった。手記「癌とつきあう!」(週刊ポストS60・11・8)のなかで川上は言う。「人間はこうやって死ぬのだなということが、薄ぼんやりと、その瞬間わかるのではないかということだ。できれば、その瞬間、速記ができなくても書き写してほしい気持がある」
プロテスタントの牧師を父にもつ川上は愛媛県生まれ。3歳のとき、父の仕事の関係で大分、そして長崎へと引っ越す。原爆によって母親と妹2人を失うが、自身は佐賀の陸軍病院で難を逃れる。九大卒業後、牧師として勤めながら純文学を志す。昭和29年、『その掟』で芥川賞候補となり、以後5回ノミネート。晩年、谷崎潤一郎に傾倒していた川上は知人に「是非、谷崎を超える麻薬小説に官能を加味した作品を書きたい」と語り(週刊現代S60・11・2)、病室で最後の対策となる『淫霊』を仕上げる。この作品は、死んだ男の親友である主人公が、遺言どおり仮通夜の席でその未亡人を抱くが、女の体に亡父の性癖が残っており、セックスの最中いつも男の霊が漂っているように感じるというもの。つまり死んでも自分の存在をセックスとして、この世に残しておいたのだ。川上みずらの死の予感と性への執着心が溢れた鬼気迫る内容である。
死の前夜、3人目の妻、31歳の由美子夫人をベッド脇に座らせ、川上はひと晩中しゃべり通す。そして翌10月13日、普段はわがままなど言わない川上が「薬を飲まない」と言い出す。その理由を尋ねると「無駄なことはしない」とかすれた声で囁いた。
・
望んでいた末期の瞬間の著述はかなわなかったが、手を小さく振った後、午後10時10分、苦しむことなく安らかに逝った。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
川上宗薫 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%AE%97%E8%96%AB&gs_upl=0l0l0l32lllllllllll0&sa=X&oi=image_result_group