ハイラム・ビンガム - あのひと検索 SPYSEE
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El super Lujoso Tren - Hiram Bingham 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Gv4mAEuC5Ps
Machu Picchu Decoded - National Geographic - 01/04 - Subtitulos en Espanol 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=VaMI0bMwq_Q&feature=related
Indiana Jones 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=xcXlsTVmJ2o&feature=related
マチュピチュ遺跡 画像
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/bigphotos/images/top-science-grants-national-geographic-machu-picchu_45128_big.jpg
ハイラム・ビンガムのマチュピチュ調査(記事全文) ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2011120904&expand#title
ハイラム・ビンガム ウィキペディア(Wikipedia)より
ハイラム・ビンガム3世(Hiram Bingham III、1875年11月19日 - 1956年6月6日)は、アメリカの探検家、政治家。ペルーのマチュ・ピチュ遺跡の発見者。インディアナ・ジョーンズのモデルとされる。
【考古学者】
1908年、サンティアゴで開催された全米科学者会議に代表として出席。その帰路で、古いスペイン貿易ルートを探検し、ペルーに立ち寄る。そこでオリャンタイタンボ(Ollantaytambo)というインカ時代の都市を見学して強い興味を覚える。1911年、イェール大学ペルー探検隊を組織して、ペルーへ入る。そして同年の7月24日、マチュ・ピチュを発見。
1912年と1915年にも、イェール大学およびアメリカ地理学協会の援助を受けて、ペルーのインカ遺跡を調査している。この調査は、ナショナル・ジオグラフィック誌が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にした事で有名になった。
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『世にも恐ろしい世界史の迷宮』 桐生操/著 PHP研究所 1999年発行
100人の処女ミイラとともに眠る至宝−太陽神殿マチュ・ピチュ (一部抜粋しています)
1911年、探険のためにペルー奥地に足を踏み入れた、アメリカのイェール大学教授で考古学者のハイラム・ビンガム博士は、ある日、不思議な少年と出会った。少年は博士に、自分はインカ王族の子孫だと名乗り、
「よろしければマチュ・ピチュの遺跡にご案内しましょう」
と、言いだしたのだ。
博士はそれを聞き、冗談を言っているのかと思って笑った。マチュ・ピチュの遺跡とは、インカのいい伝えにある、アンデスの山中深く眠る廃墟だというが、当時はどの学者も幻の廃墟だと、実在を否定していたからである。
が、それでも少年が断固として言い張るので、教授は少年の熱心さと、その不思議な魅力に惹かれ、ついに、案内してもらうことにした。
少年の後をついていくことは容易ではなかった。目の前には6000メートル級の山々がそびえ、どこまでも絶壁と氷河だけが続く。それこそ、何度諦めて引き返そうとしたかわからない。少年が自分をからかっているのではないかと、何度自問自答したことだろう。しかし、数日後にようやく山脈を超えた時・・・。
「あそこにみえるのがマチュ・ピチュの遺跡です!」
と、少年が遥か彼方を指した。その方向を見た博士は、思わずあっと息を呑んだ。美しい氷河の果ての、そびえ立つ高峰の頂きに、なんと古い都の跡が幻のように輝いているではないか!
博士が興奮で胸を震わせながら少年に導かれて堀を渡り、荒々しい砦をよじ登り、ついに都の中心にたどり着くと、そこにはインカの首都クスコのものとそっくりの巨大な"太陽の神殿"がそびえ立っていたのである・・・。
だが、それだけではなかった。博士と少年が神殿の扉をこじ開けて入ってみると、奥まった1室には、なんと黄金の神像を囲んで、美しい100人の処女たちのミイラが横たわっていたのである。
処女たちはみな、真っ白な花嫁衣装のようなものを着ていた。ある者は恍惚とした微笑を浮べ、またある者は恐怖に顔を歪めて、互いにしっかり抱き合うようにして横たわっていた。
ただ呆然とその場にたたずむ博士に、少年は囁いた。
「"太陽の処女"たちは、インカが滅びたとき、地下の間道を通ってこのマチュ・ピチュに逃れ、神の救いを求めて全員が自ら生け贄になったのです」
「なんということだ。では、言い伝えは本当だったのか? それで、噂に高い神殿の秘宝はどこだ?」
だが、少年は寂しげに微笑した。
「神殿の秘宝はここにはありません。それはもっともっと南の、チチカカ湖の湖底の泥深くに沈められて、永久にだれにも引き上げることはできないのです」
そう言うと、少年は博士に一礼して軽々と氷河を乗り越え、峰を駆け登り、やがてその姿はアマゾンの原始林の彼方に消えてしまった。博士はその後ろ姿を、ただ見送るだけだった・・・。
15世紀、アンデスのインカ文明は、すでに超高度文明を築いていた。最盛期の人口はざっと1100万人。家々はみな、水洗トイレやリビング。キッチンのついた高層耐火建築だった。
街の中央には官庁や学校や病院が立ち並び、そこから見事な舗装道路が四方八方に伸びていた。
宗教建築には太陽神のシンボルとして、豪華な黄金が豊富に使われていた。首都クスコで最大の建物である太陽神殿は、内壁も外壁も黄金板が張り巡らされ、屋根も金糸で美しく飾られていた。
神殿中央の裁断には、分厚い黄金の円盤をかたどった太陽像が安置され、両側には歴代皇帝のミイラが、生前そのままの姿で黄金の椅子に座っている。神殿の奥には中庭を囲む聖堂があり、各地から献上された金銀財宝が納められていた。
中庭にはトウモロコシ畑や噴水があった。地中に埋め込んだ黄金のパイプを通して水が引かれており、インカの皇妃たちは結婚式の前に身を清めるため、ここで沐浴したのである。
神殿の外側には「黄金の庭園」があり、花や樹木、鳥や爬虫類、動物など、そのすべてが黄金で作られていた。咲き誇るバラは、真紅のルビー、果実は巨大なエメラルド、さらに砂金のうえに植えられたトウモロコシは純金の塊。
そして丘の上の太陽神殿では、100人の美しい処女たちが、香料風呂で身を清め、いずれ神の生け贄になるのを待っていた。アクヤクーナと呼ばれる、いずれも帝国きっての美女たちである。
彼女たちはアクヤクワシと呼ばれる一種の修道院に入れられ、糸つむぎ、機織りから宗教儀式まで、神の祭祀に必要なあらゆることを教えられた。成長すると、首都クスコでインカ皇帝に拝謁し、審査を受けて「太陽の処女」となり、太陽神殿で神に仕えることとなる。
彼女たちは太陽の処女だから、太陽と同格の皇帝のほかは、その肉体を愛することはできない。美しい順から皇帝のお呼びがかかり、一夜、その肉体で皇帝をなぐさめる。そしてその聖なる任務を終えると、翌朝、正式に太陽神に嫁入りするのだ。
王宮の前にある高い石の台に、夜伽(よとぎ)をすませた娘が、全裸の身を長々と横たえる。その肉体が太陽神に捧げられようとしているのである。国土の平安守り、太陽神の怒りを鎮めるための儀式だ。
石の上に横たわり、光栄の一瞬を心待ちにしている娘の胸に、神官の持つ石の刃が降り下ろされ、左乳房の下を裂き、まだ動いている心臓を取りだす。若い娘の心臓を、太陽神は最も好むのだ・・・。
これらの話を伝え聞いたヨーロッパ人たちは、なんとかインカ帝国を征服して、光輝く黄金を手に入れようと思いたつ。このときから世界史上最大の悲劇、インカ帝国の滅亡が始まったのである。
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1531年1月20日、ピサロは180人の兵士と37頭の馬を3隻の帆船に分乗させて、いよいよインカ帝国に向けて出発した。ボロ船で大西洋を横断、パナマから南下したが、途中で野エクアドル沖で遭難の憂き目にあった。
わずかな食料、衣類、武器とともに岩島に流れ着いた後は、ジャングルを剣で切り咲き、木の根をかじって進む強行軍だった。彼らを支えたのは、先住民から買い取った怪しげな地図と、ジャングルの果てに夢にまで見た黄金の国があるといういい伝えだけだった。
1年半後、悪運強い一行は、飢えや病に苦しみながらも、ジャングルの南端に到着、そこには深い谷の向こうに黄金の塔がそびえたち、遥か彼方にそびえる白銀の峰々まで、舗装された立派な道路が伸びていた。
ピサロと180人の無法者たちは、インカ帝国を目指して1532年9月、いよいよアンデスの急峻な西斜面を登りはじめた。悪路と疫病に苦しみながら、彼らが約1ヵ月後にたどり着いたのが、カハマルカの町である。
時のインカ帝国アタワルパは、一行が近づいてくることを、すでに逐一報告を受けていた。
だがこのとき、王位をめぐる異母兄ワスカルとの戦いを制したばかりのアタワルパ王は、首都クスコに近いカハマルカの温泉で戦いの疲れを癒していたのである。彼にとって、広大なタワンティンズユの片隅を進むわずか180人のスペイン人など、とるに足らないものに思われた。
1532年11月15日、カハマルカの町に入ったピサロ一行と、郊外に陣を張るアタワルパ王の間に慌ただしく使者が往復した。
王のもとから帰ってきた使者の報告は、ピサロの一行を恐怖させた。何より彼らを怖れさせたのは、4〜5万と推定される統制のとれた軍隊だった。
実のところピサロの一行の中に、職業軍人は数人しかいなかった。ピサロが故郷トルヒーリョで募集した、戦いの経験のほとんどない20歳そこそこの食いつめ者がほとんどだったのだ。
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ピサロら数人は一直線にアタワルパ王の奥に駆けつけ、彼を引きずり下ろす。逃げまどうインカの親衛隊と追いすがるスペイン兵らで、広場は地獄と化した。
虐殺から逃れようとインカ兵が広場の出口に殺到し、彼らの圧力で広場を囲む壁は押し倒された。町の外に逃れでるインカ兵を追って、スペイン兵が死体の山を越えて追いすがる。
わずか半時間ほどの戦闘で、数千人のインカ兵が命を落としたのに比べ、スペイン兵は無傷だった。王が捕らえられたことで、中央アンデスの広大な地域は、今や完全にピサロ一行に握られてしまった。
わずか180人の無法者が数万人のインカ軍をあっという間に打ち破ったというのは信じられない話だが、実は理由はごく簡単である。インカ人はそれまで、馬も鉄砲も見たことがなかったのだ。
彼らは馬に乗って攻めてきたピサロ軍をてっきり神だと信じ、初めて聞く銃声に怯え、自分たちの銀や銅の剣が鉄の剣でぼろぼろになるのを見て、総崩れになってしまったのである。
さらに致命的だったのが、「創造主ビラコチャがいつか帰ってくる」というインカの古いいい伝えが存在していたことである。ビラコチャとは、太陽や月やインカ帝国を作った白い肌の神のことで、まさに、この年に帰ってくると予言されていた。したがって、ピサロの軍がそれと勘違いされたのも、無理もないことだったのである。
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