じじぃの「人の死にざま_814_藤原・義江」

藤原義江 - あのひと検索 SPYSEE
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ケンタッキーのわが家 Victrola VV 1-90 動画 YouTube
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この道 藤原義江 山田耕作伴奏 動画 YouTube
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藤原義江 ウィキペディアWikipedia) より
藤原義江は、日本のオペラ歌手、声楽家テノール(テナー))。愛称は我等のテナー(われら―)。
戦前から戦後にかけて活躍した日本を代表する歌手の一人であり、藤原歌劇団の創設者。スコットランド人の父親と日本人の母親との間に生まれたハーフ(混血)。大阪府生まれ、山口県下関市出身。
【我等のテナー】
義江は1923年(大正12年)に帰国。同年3月にシアトルを出航した乗船の「加賀丸」が洋上にある間、朝日新聞は「我等のテナー・藤原義江」なる全9回もの虚実織り交ぜた記事を連載する。4月10日に帰国した藤原は5月6日、神田YMCAで東京朝日新聞社主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功、大マスコミの巧みな仕掛にうまく乗った形になる。なお海外にあった3年のうちに生まれた長男・洋太郎は早世、妻・文子との関係は雲散霧消していた。
「我等のテナー」は各地でリサイタルを行い大成功を博すが、東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキ(藤原あき、福澤諭吉の実姉:婉の長男で、三井財閥の番頭、中上川彦次郎と妾・つねとの間の子で女子学習院出身)とのスキャンダルが大事に発展、ほとぼりを冷ます目的で外遊。ハワイ、アメリカ西海岸など日系人の多い土地のリサイタルで稼いでは、あきからの情熱的な手紙を受け帰国する、といった行動を2度も繰り返す。当時、世紀の恋と謳われた。1930年(昭和5年)に結婚。藤原あきとの間に一子(男子)をもうける。この間1926年(大正15年/昭和元年)にはニューヨークでビクター社初の日本人「赤盤」歌手として吹き込みを行っている。
1930年(昭和5年)にはヴェルディ『椿姫』(指揮・山田耕作、当時では異例な原語上演だったと思われる)のアルフレード役で初めて本格的なオペラ出演を果たす。そしてその直後、藤原は初めて真剣な音楽研鑽のために再渡航する。今回は新妻・あきも伴っての留学であり、1931年からはイタリアの地方小歌劇場を転々とし、着実にレパートリー拡大を行った。また妻・あきもこうした地方公演について回り、化粧、衣装、道具など様々な舞台裏の約束事を身に付ける。これが後の歌劇団結成時に役立ったという。1931年(昭和6年)にはパリのオペラ=コミック座のオーディションにも合格、プッチーニラ・ボエーム』のロドルフォ役で舞台にも立っている。
藤原歌劇団
1934年(昭和9年)6月、義江は日比谷公会堂にてプッチーニラ・ボエーム』(原語上演とみられるが、異説あり)の公演を行う。「東京オペラ・カムパニー公演」と銘打ってのものだが、これが藤原歌劇団の出発点となる。大倉喜七郎などパトロンの援助も空しく興行的には実入りはなかった模様だが、(素人同然のコーラスを除けば)音楽的には評論家から賛辞一色が呈された。
その後同カムパニー名義でビゼーカルメン』、ヴェルディリゴレット』(マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演している)、プッチーニ『トスカ』などで着実に舞台を重ねる。藤原は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけたし、訳詞上演の際には妻あき子がしばしば(柳園子の筆名で)参画している。
藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年(昭和14年)3月26日から歌舞伎座で行われた『カルメン』であり、大成功を博した。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
藤原義江(ふじわらよしえ) (1898-1976) 77歳で死亡。(一部抜粋しています)
戦前、戦後を通じて、国際的な活躍を見せたオペラ歌手。イギリス人の貿易商と日本人の芸者の私生児として下関で生まれた。もの心つく前から母と分かれ、親戚、知人の間をたらい回しにされる。混血児に対する周囲の冷たい視線に耐えながら少年期を過ごし、やがてオペラに魅せられ、歌手を目指す。大正9年に単身渡欧、その後アメリカに渡り、大きな成功を手にした。”我等のテナー”と言われた義江は華麗な女性遍歴でも有名で、彼が愛した女性は300人を下らないといわれている。また、服装、食事などすべて一流品を好み、その貴族趣味のために後年莫大な借金を抱えてしまった。
自分を捨てた母に対しては、生涯にわたって複雑な感情を抱いていた。彼女の危篤のとき、義江は愛人と芝居見物に出かけ臨終には立ち会わなかった。このときのことを彼は自著のなかで、「……僕は、長患いの後の母の死に目には会いたくなかった。……小さい頃、たった一つの母への美しい僕の思い出である、琵琶(びわ)を膝(ひざ)のうえに乗せて『湖水渡(明智左馬介)』を謡っていた母の姿。そのままの思い出を残したまま、僕は母と別れたいと思った」と語っている[歌に生き恋に生き]。ちなみに2度目の妻の死のときも、彼は野球観戦に行っていた。
藤原は40代後半からパーキンソン病を患い、やがて年をとるにつれ歩行障害がひどくなった。昭和50年10月11日、激しい咳から呼吸困難に陥り、住まいにしていた帝国ホテルから病院にかつぎこまれる。喉の手術をしたが衰弱が激しく、5ヵ月後の3月22日に死亡した。
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彼のそばで最後まで面倒を見た女性が、イタリアのサンタ・ルチアの浜辺から、遺髪や遺影とともに遺骨を小舟に乗せ、海に流した。

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藤原義江 Google 検索
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