じじぃの「人の死にざま_773_丹羽・保次郎(FAXの発明者)」

丹羽保次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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Fax Machine 動画 YouTube
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The Fax Machine 動画 YouTube
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東京電機大学丹羽保次郎記念論文賞
http://www.dendai.ac.jp/kikin/niwa/
丹羽保次郎 ウィキペディアWikipedia)より
丹羽保次郎(にわやすじろう、1893年明治26年)4月1日 - 1975年(昭和50年)2月28日)はNE式写真伝送装置を開発した技術者。東京電機大学初代学長。日本の十大発明家の一人として数えられることもある。従三位勲一等工学博士。三重県松阪市名誉市民(第1号)。
三重県松阪市出身。1916年に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業後、逓信省電気試験所を経て1924年6月日本電気に入社。同年から翌1925年末にかけ欧米へ最新の通信技術を学びに視察。1926年2月工学博士。帰国後、同社の研究開発体制の強化を担当し1927年技術部長となる。写真伝送の研究に取り組み始め、小林正次と共にNE式写真伝送装置を完成。これは大阪毎日新聞社に採用され、1928年の昭和天皇の即位大礼の写真伝送に使用された。翌1929年には東京〜伊東間での長距離無線写真伝送の実験に成功する。
1939年には新設の研究所の初代所長に就任し電波探知機などの研究を指揮したが、第二次世界大戦後の混乱と経営難で研究所は1949年閉鎖された。
1949年に東京電機大学初代学長に就任。1955年社団法人テレビジョン学会初代会長に就任。1959年に文化勲章受章、1971年には勲一等瑞宝章を授与される。

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コロンブスのゆで卵』 TBS「コロンブスのゆで卵」取材班 勁文社 1997年発行
1枚の写真に賭けた男たち 世界に誇る日本製FAXの出発点 (一部抜粋しています)
デジタルカメラで撮影された写真は、携帯電話を使ってすぐさま編集部に送られ、レイアウトにまわされる。あとは樹脂で版を起こし、輪転機で印刷されるだけ。撮影から印刷まで、なんと1時間という早業なのである。早い話、FAXとデジタルカメラが一体化したシステムが、こんな離れ業を可能にしているのだ。近年のハイテク技術には驚くばかりである。しかし、驚くべきことにこの写真を回線を使って送るという写真伝送は、すでに昭和初期に実用化されていたのである。
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いち早く撮影したばかりの写真を紙面に載せることに社運を賭けていた毎日と朝日は、来たる昭和天皇即位の御大展で、その成果をどう見せるかで迷っていた。毎日は社長の本山彦一、編集総務の奥村信太郎らトップの人間が、フランスで極秘に入手した写真伝送システムを採用することに決め、一方、朝日もドイツから技術者を招いて写真伝送の研究にとりかかった。
毎日がフランスのベラン社、朝日がドイツのシーメンス社の方式をそれぞれ採用した。しかし、その当時としては破格の4万円という価格でありながら、大きな不安を抱えた機械でもあった。案の上、両者とも実験伝送をはじめてみたが、歪みがすごく、とても使い物にある代物とは言えない写真ばかり。毎日のフランス方式では、1枚に30〜4分もかかり、その上、使えるのは数枚中に1枚。実用に耐えられる結果はなかなか得られない。
一方朝日も、ドイツ人技術者が失敗の連続でイライラがつのり、部屋に立てこもる始末。両者とも残すところ御大展まで約2ヵ月という状況で、困惑の色を隠せなかった。
そんなとき、毎日の佐藤与一は編集総務の奥村の元を訪ねた。
「ベラン方式では失敗します。機械を替えなければ……」
佐藤はそう言った。しかし、奥村は、
「そんなことはわかっている。が、他に方法がないじゃないか」
と返答するしかなかった。しかし、そこで佐藤は言い切ったのである。
「いいえ、あります。国産でいくべきです」と。
昭和3年9月。佐藤は丹羽保次郎を連れてくる。無名の若き研究者・丹羽博士は、東京帝国大学を卒業し逓信省の研究所に入ったのち日本電気に引き抜かれ、写真伝送の研究を続けていた。それを知っていた佐藤が、丹羽に白羽の矢を立てたのだ。
丹羽は本山社長以下、重役の前に現れると、「国産をバカにしないでください」と明言した。そしてさらにこう続けた。
「この好機を無駄にしたくないんです。我々がもし失敗すれば、我が社は信用を落とします。いいえ、それだけじゃなく日本の技術者全体の信用を落とすことになるんです。それでなくても舶来崇拝が依然として強いんですから……。お金ほしさとか、そんないい加減な決意ではないんです」
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そして、昭和3年11月6日、午前7時、天皇陛下が皇居を出発した。その時の写真が東京から大阪に送られ、数時間後、大阪の町に毎日新聞の号外が舞うことになった。
翌日の京都での儀式では、京都から東京に127枚もの写真を伝送し、紙面を飾ることに成功。伝送に失敗し、事前に配られた写真を掲載するにとどまった朝日に、毎日は完全に水をあけ、大成功、大勝利をおさめたのである。
その夜、丹羽が佐藤に「佐藤さんのお陰です」と礼を言った。その言葉に佐藤は丹羽に本心を打ち明けた。
「実は明るく振る舞っていましたが、ずっと辞表を持って仕事をしていました。あなたに賭けていたんです」
丹羽はその言葉に息を飲んだ。佐藤はさらに続けた。
「今回の報道合戦は、新聞社も電気メーカーもない。技術者も新聞社もないんです。まして毎日VS朝日なんてことは関係ありません。これはフランスやドイツとの競争でした。我々はみんな”頑張れニッポン”と心から思っていたんですよ」
写真伝送に賭けた2人の男。その男たちがあってこそ、日本の写真伝送があり、世界のシェア70パーセントを誇る日本のFAXがいま存在するのである。

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