コロッセオ、ローマの円形闘技場 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=T4PHaaYG0eU&feature=related
南イタリアの旅 22 「世界遺産 ポンペイ遺跡」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=iibA_o8LqwI
Rome Burns 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=_EVZwTMmk8c&feature=related
古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議7 前哨戦スペシャル」 (追加) 2012年9月21日 テレビ東京
【MC】ビートたけし 【進行】松丸友紀(テレビ東京アナウンサー) 【パネラー】吉村作治、荒俣宏 / 萬田久子、宮崎香蓮 【レポーター】ペトラ遺跡:趙萊和 /アダラジ・ヴァヴ:中田あすみ
今から2000年前にギリシャの数学者にして旅行家フィロンが「世界の7つの景観」を選んだ。
「たけしの 新・世界七不思議」では、2007年から毎年正月に、現代の“フィロン”たけしと日本を代表する賢人たちが、“21世紀の世界七不思議”を決定してきた。これまでに、6つの“新世界七不思議”が選ばれた。その6つとは…
ローマの象徴でもあるコロッセオには、ローマ帝国の誕生と破滅の謎が隠されている。ローマは現在もアッピア街道などに残る、セメント技術を駆使した頑丈な道を作り出した。
ローマ帝国はローマンコンクリートという新素材を生み出し、その素材を使いコロッセオを建てた。ローマンコンクリートは現代コンクリートの倍以上の強度があったとされている。
コロッセオで本当に海戦が行われたのか、その証拠がサン・ジョパンニ・エ・パオロ教会の地下から見つかった。地下にある洞窟には多くの穴が掘られ、コロッセオに水を供給していたと見られている。
http://www.tv-tokyo.co.jp/nanafushigi_sp/
キリスト教年表 ウィキペディア(Wikipedia)より
【1世紀】
・29または30 イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で磔刑になり、3日目に復活した。
・30 復活の後、イエスが弟子たちに大宣教命令を与えた。
・35または36 ステファノが石打ちの刑で死にキリスト教の最初の殉教者(致命者)となる。迫害者パウロ(本名サウロ)がイエスの幻を見て回心する。
・46 サウロがバルナバとともに第1回伝道旅行(キプロス・小アジア)に出発し、途中で名をパウロと改める。
・47 宣教方針をめぐってエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人への宣教が認められる。
・48 パウロが第2回伝道旅行(小アジア・ギリシャ)に出発し、途上でテサロニケ人への第1・第2の手紙が書かれる。(〜51)。
・52 パウロが第3回伝道旅行(小アジア・ギリシャ)に出発し、途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
・54 この頃、マルコによる福音書が書かれる。
・57 パウロはユダヤ人に訴えられて逮捕されるが、ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
・60 パウロはローマに到着し、以降数年を過す。フィリピ人・コロサイ人・フィレモンなどへの手紙を書く。この頃、ルカによる福音書が書かれる。続いて同じ著者によって、使徒言行録が書かれる。マタイによる福音書もこのころ成立。
・61 エルサレムの教会を指導していたイエスの兄弟ヤコブ)が殉教する。
・64 ローマの大火を理由として皇帝ネロがキリスト教徒を迫害する。
使徒行伝(しとぎょうでん) ウィキペディア(Wikipedia)より
新約聖書の中で、伝統的に四つの福音書のあとにおかれる。
『使徒行伝』の内容は、一口で言えばキリスト教の最初期の様子である。特に二人の使徒ペトロとパウロの活躍が中心に描かれている。さらにエルサレム教会と初期のユダヤ人のみのキリスト教コミュニティーがコルネリウスの洗礼をへて異邦人(非ユダヤ人)の間へと広がっていた様子が記録されている。
本文によれば、『使徒行伝』は『ルカによる福音書』の続編として(聖書自身の証言と伝承によればルカの手で)書かれたものであるという。どちらも「テオフィロ」(ギリシア語で「神を愛する者」という意味)なる人物に献呈されている。もともとは一冊の書物だったという説もあるが、現代の研究者たちがさかのぼれる最古の資料の時点では、すでに『ルカによる福音書』と『使徒行伝』は別々の本になっていた。『使徒行伝』はこの時代に書かれた作品としては他に類をみない非常にユニークなものであり、初期キリスト教の研究は本書なしには成り立たない。また、パウロの書簡集も『使徒行伝』の存在によって価値あるものになっており、『使徒行伝』なしにパウロの手紙を読んでも理解できない部分が多いことを忘れてはならない。
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世界遺産ライブラリー [ローマ歴史地区] NHK世界遺産
ローマは紀元前7世紀の中頃にラテン人とサビニ人が町を築いて以来、2600年以上の歴史を持ちます。ローマ帝国の都として栄えた「永遠の都ローマ」には、ローマ帝国の中枢フォロ・ロマーノ、アウグストゥス霊廟、円形闘技場コロッセオ、神殿パンテオン、トラヤヌス帝記念柱、コンスタンティヌス帝凱旋門など、数多くの古代の遺構が残り、ローマ帝国の栄華を今日に伝えています。
「シリーズ世界遺産100」では、円形闘技場コロッセオを紹介します。周囲527メートル、高さ48.5メートル、5万人を収容することができたとされるコロッセオでは、剣闘士たちの血なまぐさい格闘がおこなわれました。地下6メートルの迷路のような空間には、檻に入れたライオンやヒョウなどの猛獣を、舞台にせり出す昇降機が備えられていました。ショーを主催したのはローマ皇帝でした。皇帝は市民に娯楽を与えることで、治世の安寧(あんねい)を図ろうとしました。コロッセオの観客席は身分によって分けられていました。一階席は元老院と議員、二階席は騎士、その上が市民、最上階は市民権を持たない人のものでした。これは、人々に身分制度を意識させて帝国の秩序を保つ、皇帝の巧みな統治術でした。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards084.html
世界遺産ライブラリー [ポンペイ遺跡] NHK世界遺産
ナポリ近郊にあるポンペイ遺跡は、古代ローマの都市と人々の生活ぶりをほぼ完全な姿で今に伝える貴重な遺跡です。西暦79年8月24日、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山が大噴火すると、南東10キロに位置したポンペイの町は火山灰に埋もれてしまいました。その後、およそ1700年の時を経て始まった本格的な発掘によって、古代都市の様子がまるで時が止まったかのように出現しました。
「シリーズ世界遺産100」では、繁栄の頂点で突然消えた古代ローマのタイムカプセル、ポンペイの姿をつぶさに紹介します。発掘によって現れたポンペイの町は、整然と区画され、住居はもちろん、劇場や公衆浴場、下水道まで完備されていました。人口1万人以上と推定される町には、壁画やモザイク画、市民が記した落書きなどが当時のまま残され、ローマ帝国の市民たちの贅沢で、享楽的な暮らしぶりを鮮やかに物語っています。そうした平和な日々は、ベスピオ山の大噴火によって、一瞬にして奪われてしまいます。逃げ遅れた人々は吹きつけた高熱のガスで窒息死し、その上に灰が降り積もりました。灰は硬く固まり、肉体が朽ちて空洞が残りました。研究者たちは、その空洞に石膏を流し込み、死の瞬間の姿を浮かび上がらせたのです。それは、家の中で身を寄せ合う家族、最後まで子どもに寄り添う母親、互いをかばい合うように抱き合う恋人などの姿でした。石膏の人型は、一瞬にして平和な日々を奪われたポンペイ市民の悲劇を伝えています。ポンペイ遺跡は、はかない人間の宿命を物語る世界遺産でもあるのです。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards355.html
『神の旅人 聖パウロの道を行く』 森本哲郎/著 新潮社 1988年発行
最後の航路 (一部抜粋しています)
ローマの新市街エウルにあるローマ文化博物館は古代ローマ帝政時代の都市をそっくり復元した模型がつくられており、2階の回廊からは鳥瞰(ちょうかん)できるようになっている。2000年も前の都市がかくも見事だったとは、ちょっと想像できない。人口はそのころ400万を越えていたというから、文字どおり世界最大の都市であり、「すべての道はローマに通じ」ていたのである。
ローマ人は都市づくりの天才で、首都のほかにも属州にたくさんの町を建設した。その見事な都市景観は、そのままローマの威信と恩恵と、文化を示す支配力、すなわち、「ローマによる平和(パックス・ローマ)」を象徴するものであった。そうした都市が何百と領内に出現し、”永遠のローマ”を誇ったのだ。私たちはその一例をあのポンペイ、紀元79年8月4日に起きたヴェスヴィオ火山の爆発であっという間に火山灰の下に埋もれてしまったナポリ湾に臨む植民地に充分うかがうことができよう。
私は何度かこの遺跡を訪れた。パウロ時代のローマ都市が1900年後のこんにち、あたかもきのうのような姿で目撃できるとは! 2000年近い歳月を、かくもなまなましく実感できる古代の遺跡は、ここをおいてほかにない。ポンペイを訪ねる現代の旅人は、たったいま自分があるいている歩道の陰からトーガをまとった市民がいきなり現れたとしても、けっしておどろかないだろう。
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2年間の拘禁を解かれ、パウロがカイザリアからカイザルの法廷に立つべくローマへ向かったのは、紀元61年ごろとされている。火山の爆発でポンペイが埋もれたあの大惨事の18年前にあたる。
「使徒行伝」はこうつたえている。
――さて、わたしたちが、舟でイタリアに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛兵の百卒長ユリアスに託された。そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆した。
こうして、いよいよパウロ最後の航海が始まる。以下、「行伝」は苦難にみちた航路についてくわしく物語っているが、むろん、それが事実であるか、それとも物語的な粉飾なのか、確めるすべはない。が、真に迫るその描写は、ほぼ正確にパウロの最後の旅を記録したものと見ていいだろう。
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やっとも思いでマルタ島に上陸したパウロほか一行は、この島で3ヵ月を過ごし、冬を越す。島の首長はポプリオといったが、彼はパウロたちを家に招き、親切にもてなしてくれた。パウロが島の病人をつぎつぎになおしたので、島民の尊敬を一身に集めるようになったと「行伝」にある。
やがて春が訪れる。百卒長の指示のもとに、こんどもアレクサンドリアの舟で出航する。イオニア海を北上してシシリー島東岸にあるシラクサに寄り、3日停泊。イタリア半島はもう目と鼻の先だ。その半島の突端の港町レギオンへ向かい、「それから1日おいて、南風が吹いてきたのに乗じ、2日目にポテオリに着く」。ここからローマまでは陸路7日の旅である。パウロはポテオリに1週間滞在し、迎えに出ていた「兄弟たち」と話し合ったあと、彼らと別れ、ローマ兵に引率されてローマをめざす。ポテオリの「兄弟たち」から連絡が届いていたのだろう。ローマ在住の異邦人キリスト教徒たちが途中まで出迎えてくれた、とある。こうして、パウロはついに最後の旅を終えたのである。
ルカの記述はこのあたりから急に簡略になる。が、それによると、パウロはローマで「ひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許された」らしい。そこでパウロはさっそくローマ在住のユダヤ人のおもだった人たちを招いて、自分がローマにやってきたいきさつを話し、ついで、「日を定めて」「朝から晩まで」「モーセの律法や預言者の書を引いて」イエスの教えを語りつづけたという。「ある者はパウロの言うことを受け入れ」たが、ほとんどのユダヤ人は信じようとしなかった。
その後のパウロについて、ルカは黙して語らない。彼の手になる「使徒行伝」は、ただ、つぎのような叙述で終っているのだ。
――パウロは、自分の借りた家に満2年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宜(の)べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。
パウロがカイザルの法廷に立ったのかどうかもわからない。軟禁状態が解かれたのかどうかもさだかではない。彼の運命は、ただ推測する以外にないのだ。おそらく――と多くの研究者は推定している。紀元64年に行われたローマ皇帝ネロのキリスト教徒迫害にあって処刑され、殉教したのではなかろうか、と。パウロのあとを追ってローマに現われたペテロの刑死もこのときであった。
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どうでもいい、じじぃの日記。
森本哲郎著 『神の旅人 聖パウロの道を行く』という本を見ていたら、「最後の航路」というのがあった。
パウロは、今のトルコで生まれたユダヤ教徒で、ギリシャ語もうまくローマの市民権をもっていた。あるとき復活したイエスを見て「回心」し、熱烈なキリスト教徒となった。
パウロは各地で宣教活動を行い、ローマに向かった。パウロの目的はローマに住むキリスト教徒に自らの信じる「福音」を伝えることであった。紀元60年、パウロは最後の航路、ローマに到着した。
紀元30年、ゴルゴダの丘でイエス・キリストが十字架に架けられていたころ、同じローマの空の下でネロが生まれた。
紀元64年のローマの大火に際して、ネロは放火犯の一味としてキリスト教徒を処刑した。キリスト教徒たちは動物の皮を着せられ、犬に喰い裂かれて死んでいったといわれる。
この時、ネロによって殺されたキリスト教徒の中に、パウロがいたのだろうか。
ローマの大火はネロの指揮によって放火されたという説がある。
ローマの大火は、それがキリスト教への信仰を大きく燃え立たせることになったのであった。