じじぃの「人の死にざま_745_山極・勝」

山極勝三郎 - あのひと検索 SPYSEE
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幻のノーベル賞 世界初の人工がん HOKUDAI Only One! No.2〜北海道大学 動画 YouTube
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寿製薬 CM 動画 YouTube
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山極勝三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山極勝三郎は、日本の病理学者。人工がん研究のパイオニアとして知られる。
【来歴・人物】
信濃国の上田藩(現在の長野県上田市)に生まれる。同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。1880年東京大学予備門、1885年には東京大学医学部(のちの東京帝大医学部)に入学し、卒業時は首席という成績を残す。1891年からドイツに留学、帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。特にがん研究では日本の第一人者であった。1889年には肺結核を患うものの療養を続けながら研究を行う。1915年には世界ではじめて化学物質による人工がんの発生に成功。1923年には帝大を定年退官。1930年、肺炎で逝去する。
【幻のノーベル賞
山極は1925年、1926年、1928年と没後の1936年の4度、ノーベル生理学・医学賞にノミネートされている。1925年と1936年は日本人からの推薦のみであったが、1926年と1928年はいずれも海外からで、フィビゲルとの連名での推薦であった。
この中で最も受賞の可能性が高かったのは、フィビゲルが受賞した1926年である。ノーベル財団所蔵の資料によると、同年の選考過程は以下のようなものであった。
ノーベル賞委員会は、フォルケ・ヘンシェンとヒルディング・バーグストランドの2人のスウェーデン人医学者に、フィビゲルと山極についての審査を依頼した。ヘンシェンは過去にフィビゲルを推薦したことがあり、当初作成した報告書ではフィビゲルと山極の両方に高い評価を与え、「人工がんはノーベル賞に値し、もし寄生虫による発見者であるフィビゲルと、タールによる発見者である山極の両名で賞を分けるとすればそれは当然である」と述べた。バーグストランドは人工がんの意義は認めたものの、すでに知られていた煙突清掃員や放射線科医の職業がんを例に出し、それらの事実を追認したに過ぎず、がんの起源に関しては少しも新たな事実に光を当てていないとした。彼は新しい知識や手法の価値は、長期間にわたる臨床的な事実による知見でのみ実験的に確認されると考えていた。これに対してバーグストランドはオットー・ワールブルク(1931年受賞)によるがん組織の嫌気性代謝に関する研究の方が将来のがん研究には重要であるという立場から、フィビゲルと山極の人工がんの研究はノーベル賞には値しないと結論づけた。
一方で、バーグストランドはバクテリオファージ研究者のデレルを強く推薦し、この点を巡ってもデレルの研究の独創性を疑問視するヘンシェンとの間で対立した。ノーベル賞委員会はデレルについて別の専門家に助言を依頼し、ヘンシェンの意見が認められた。しかし、バーグストランドが人工がんへの授賞に反対していたため、ヘンシェンは「フィビゲルは山極が科学界に入ってくる以前に、発見の根拠となる素晴らしいアイディアを持っていた」として、共同受賞という当初の意見を変更し、フィビゲルについてのみ受賞に賛成する新たな報告書をノーベル賞委員会に提出した。これらを受けてノーベル賞委員会は受賞者を決定した。
ヘンシェンは来日した際に「山極にノーベル賞を与えるべきだった」と当時の選考委員のミスを悔やんだという。また、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々と為されていたことも明かしている。「東洋人」を理由とする意見はほかにもあるが、科学ジャーナリストの馬場錬成はその著書『ノーベル賞の100年』(中公新書)の中で、3回にわたるノーベル財団への取材経験から、ノーベル賞選考における日本人差別は「100パーセントないだろう」と指摘している。選考過程を検証した文書においても、人種的な差別については言及されていない。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
山極勝三郎(やまぎわかつさぶろう) (1863-1930) 67歳で死亡 【執筆者】内山幸男 (一部抜粋しています)
「ドクター・ヤマギワのタールがんのほうが、原因が明確で学問的価値が高い。ノーベル賞ヤマギワにすべきだ。私は強く主張しました」
1966年10月24日夜、東京の赤坂プリンスホテルで開かれた講演会で、スウェーデンカロリンスカ研究所のフォルケ・ヘンシェン名誉教授は40年前の医学生理学賞の選考経過を淡々と説明した。
「しかし委員の中から、東洋人にノーベル賞は時期尚早であるとの意見が出されました。当時、私はまだ若く、意見は通りませんでした」
「東洋人にはノーベル賞時期尚早」というところで、会場がどよめいた。
ノーベル賞の選考にも、そんな人種偏見があったのか。そういう驚きの声でした。
高山昭三・元国立がんセンター研究所所長は振り返る。
講演会は第9回国際がん会議のプログラムのひとつとして開かれた、「ドクター・ヤマギワ」は、ウサギの耳にコールタールを塗り、初めて人工的にがんをつくった東京帝国大学病理学教授、山極勝三郎のことだ。
結局、ノーベル賞デンマークコペンハーゲン大学ヨハネス・フィビゲル教授(病理学)に決まった。
ノーベル賞選考に国籍や人種は関係ない。しかし、評価には研究者や国の研究水準、信用が微妙に絡む。第一次世界大戦の後、日本は軍事大国になった。だが、科学分野では、まだ後進国だった。一方、デンマークはすでに物理学のボーアなど3人の受賞者を出していた先進国だった。
フィビゲルはネズミにゴキブリを食べさせ、胃がんをつくったと主張した。発表は13年。山極より2年早い。そのゴキブリには線虫のスピロプテラが寄生している。この線虫が胃壁にすみついて刺激を与え、「扁平上皮がん」をつくる、という説だ。
ところが、ほかの研究者がいくら追試してもがんはできない。次第に疑問が膨らんでいった。
52年、米ミネソタ大学のヒチコック博士らが、ようやく、同じ病変をつくることに成功した。しかし、できたものは乳頭腫といういぼのようなもので、がんではなかった。
博士らはフィビゲルの標本も調べなおした。それらも、やっぱりがんではなかった。ネズミの病変の原因はビタミンA不足で、線虫はそれを悪化させているにすぎなかった。
ノーベル賞選考記録は50年たてば公開できるという規定がある。
公式記録を見たい。ノーベル委員会に選考記録の閲覧を申請した。
しかし、不許可だった。理由書には、「文書を閲覧できるのは、科学史家または評議会が認めた研究者のみ」と書かれていた。
フィビゲルは自分の仕事を信じたまま、28年に死んだ。
しかし、業績に疑問が出たせいか、ノーベル賞受賞者でありながら、「今ではデンマークでもその名を知る人は少ない」と駐日デンマーク大使館の広報官はいう。
「あれに懲りて、ノーベル委員会が、がんにすっかり臆病になったという話です」
スウェーデン科学アカデミー会員の杉村隆国立がんセンター名誉総長はいう。その後40年間、がん研究にノーベル賞は出なかった。
山極勝三郎は、明治維新前の1863年、長野県上田市で、上田藩の下級藩士、山本政策に3男として生まれた。
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先端にパラフィンをつけたピンセットで、ハツカネズミの耳をギュッとつまむ。毎日、これをやる。だががんはできない。ネズミに耳が固く小さくなるだけで、最後にはなくなってしまった。
「これダメですよと申し上げると、先生はそうかなあといわれて、それで終わりになりました」
実験は薬品を変えて繰り返された。だが、ドイツでも成功していない。時間は食う。成果は出ない――目端の利いた助手や学生は、そんな実験をやらされないよう、別のテーマを探すようになった。
13年、東北帝国大学畜産学科を卒業した市川厚一(のちに北海道大学教授)が研究性としてやってきた。学生服に兵隊帽姿で現れた青年は、がんの研究を希望した。
そのころには、実験動物はハツカネズミから耳の大きなウサギに変わっていた。「耳には自然にがんはできない」。耳にこだわったのは、そういう理由からだった。
市川は山極の指導で、各種の薬品の中でタールが一番早く細胞増殖を起こさせることをはっきりさせた。タールは、ロンドンの煙突掃除人に多い「すすいぼ」と呼ばれる陰嚢がんの原因と目されていた。
ウサギの耳とタール。役者はそろった。
数十匹のウサギの世話は1日も休めない。それが200日、300日と続く。昼はウサギの世話、夜は標本作り。ふろに入る暇さえなかった。市川はあかだらけになり、教室員からはエゾクマと呼ばれた。実験途中のウサギが、寄生虫病で壊滅状態になったこともあった。
「周りの者は、できるわけがないと笑っていた。それでも市川先生は続けられた。先生の顕微鏡の標本箱の底には、忍耐、努力と墨書した紙が張ってあった。私はそれを見て、本当に感動しました」
北海道帝国大学での市川の弟子、久葉昇・藤田保健衛生大学名誉教授はいう。
15年8月の夏休み。結核でふせっていた山極が久しぶりに大学に出た。実験の進行状況をきいた。標本のスライドを見たいという。
1枚目。「これは連続切符にしてスケッチせよ」。2枚目。顕微鏡をのぞいた山極は、「市川これか」といって突然立ち上がり、部屋の中を歩き回った。「成功、成功!」
山極の信念と市川の努力が生んだ成果だった。
「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」
そのときの一句は季語もないめちゃくちゃなものだが、がん研究者の間では「古い池や……」と同じくらい有名な句となっている。

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