じじぃの「世界遺産・マサダ・集団自決の道を選んだユダヤの民!本当はどうなんだろう」

Masada 1. 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=c59CUTC27F8&feature=related
Masada 15. 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=VETEN2yheC8&feature=related
マサダ Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80&oi=image_result_group&sa=X
マサダ ウィキペディアWikipedia)より
マサダ(英語:Masada)とは、イスラエル東部、死海西岸近くにある古代ローマユダヤ属州時代の要塞の遺跡である。「マサダ」とはヘブライ語で「要塞」を意味する。
【歴史】
東経35度21分13秒、北緯31度18分55秒に位置する標高約400メートルの岩山にある。
紀元前120年頃に要塞が建設され、後にヘロデ大王離宮兼要塞として改修し、難攻不落と言われた。
66年にローマ帝国との戦争が始まり(ユダヤ戦争)、70年のティトゥス率いるローマ軍によってエルサレムが陥落した(エルサレム攻囲戦)後、熱心党員を中心としたユダヤ人967人がエルアザル・ベン・ヤイルに率いられてマサダに立てこもり、ローマ軍15000人がこれを包囲した。ユダヤ人たちは2年近く抵抗したが、73年についにローマ軍によって攻め落とされた。陥落直前にユダヤ人たちは、投降してローマの奴隷となるよりは死をと、2人の女と5人の子供を残して全員が集団自決したという。これによってユダヤ戦争は完全に終結した。
73年のローマ軍による破壊後は長い間その所在が分からなくなっていたが、1838年にドイツ人研究者によって発見された。

                                • -

世界遺産ライブラリー [マサダ] NHK世界遺産
イスラエル東部の砂漠にそびえる高さ400メートルの岩山、マサダユダヤの人々が一生に一度は訪れたいと願う大切な場所です。
「シリーズ世界遺産100」では、なぜマサダユダヤの人々にとってそれほど大切なのか、歴史をひもときます。紀元前1世紀、ユダヤ王国はローマ帝国支配下に入りました。しかしおよそ100年後、ローマの圧政に対して反乱を起こします。しかし相手は強大なローマ軍。最後のとりでとなったのが、要塞(ようさい)のあるマサダでした。女性や子どもを含む1000人が3年間立てこもり、抵抗を続けましたが、紀元73年、ついに要塞は打ち破られます。このとき、ユダヤの民は降伏ではなく、集団自決の道を選んだのです。犠牲者は960人にのぼりました。以来、ユダヤの民は世界各地に離散します。1948年、ユダヤの人々はイスラエルの建国を宣言。しかしそれを認めないアラブ諸国との間で戦争が起こりました。その中で、ユダヤの人々は、ローマ軍と戦った先祖に自分たちを重ね合わせ、軍への入隊式をマサダで行いました。マサダは2000年にわたる民族の誇りの象徴であり、今も多くのユダヤの人々がここで成人式を行います。
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards770.html
ベラルーシの林檎 岸恵子/著 朝日新聞社 1993年発行
マサダ (一部抜粋しています)
東洋のはずれ、ユダ砂漠のはずれ、ここから西洋がはじまろうとする死海のほとりに、マサダの砦跡は、峨々として果てしない周囲の連山からひときわ抜きん出るようにして立っていた。
高さからすれば数百メートルにすぎないのだろうが、垂直の絶壁、猛々しく厳しいその野生が、私になぜとはなく、ドレフュス大尉が流されたという悪魔島を連想させた。
2000年前は登山不可能だったといわれる。死海側から山頂にかけて、細く、ただ1本あった「蛇の道」が、今はユダヤ巡礼者や観光客のため登りやすく足がためされ、途中まではケーブルカーさえある。
ローマ軍が3年かけて登頂し攻め立てた。難攻不落と言われた城塞に、ケーブルカーや、わたり綱のついた階段を登ってあっという間に到着してしまうあっけなさが、2000年という時の流れのむなしさや、偉大さを感じさせた。
「なんだか……凄いですね」
堀川さんがぽつりと言った。そのひと言が、ここはもと、建築王と言われたヘデロの、天然の要塞を兼ねた壮大な宮殿であったことに想いを馳せさせてくれる。
      ・
紀元前66年に蜂起したユダヤ叛乱の第一次戦争も、ソロモンの神殿が炎上し、エルサレムが陥落し、この砦に籠った残党が、3年もローマの大軍に抵抗し、もはやこれまでと覚ったとき、「泥水すすり草を食(は)み……」と約2000年後の日本軍がアメリカの大軍の前に屈したように、「イスラエルは敵に降せず、死して罪過の汚名を残すことなし」と960人が自決して、「マサダ魂」を後世に残したのだった。
このとき諜徒の長、エレアザルの自決引導のスピーチは凄絶であり、自殺を罪としたモーゼの律法(トーラ)にのっとって、順繰りに仲間を刺殺し、最後に残った人物は、自己防衛のケースのみに許される凄惨な自害をしたのだった。
生き残ったものが7人いる。1人の老婆とエレアザルの遠縁にあたる女性の2人が5人の幼子を殺すにしのびなく、貯水池のある地下道に身をひそめた。
彼女たちによって、女子供を殺したあと、それぞれ命を絶っていったユダヤ抵抗軍の最後が語り伝えられた。
このことは、マサダの少し前に、40人の自決者を出したヨタパタ陥落の際に仲間を裏切って生き残りローマに降った有名なフラヴィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳述され、十数世紀の間、読みつがれてきた。
死闘を覚悟して攻め込んだローマ軍は、折り重なるようにして命を絶った960人の遺体にただ茫然としたという。7人の婦女子は手厚く遇されたようである。
ときは紀元73年、7年間にわたったユダヤゼロットを主体とする過激派の抵抗は、こうして無惨な幕を閉じ、イスラエルの独立もここに終った。
それからの約2000年、ユダヤの人々の離散(ディアスポラ)、迫害と流亡と、他民族への隷属と同化の歴史がはじまったのだった。

                                • -

どうでもいい、じじぃの日記。
岸恵子著 『ベラルーシの林檎』という本を見ていたら、「マサダ砦」というのがあった。
マサダとはヘブライ語で「要塞」のことだ。
マサダイスラエル国内の標高約400メートルの岩山に、紀元前120年頃に建設が始まり、後にヘロデ大王が改修し、難攻不落と言われた要塞だった。
68年にローマ帝国のネロはユダヤ人の大反乱を制圧し、70年にはティトゥスエルサレムを完全制圧し、「嘆きの壁」を残し、徹底的に破壊した。
マサダローマ帝国とのユダヤ戦争におけるユダヤ人の集団自決で知られ、2001年にユネスコ世界文化遺産に登録された。
「それからの約2000年、ユダヤの人々の離散(ディアスポラ)、迫害と流亡と、他民族への隷属と同化の歴史がはじまったのだった」
1948年5月14日、離散していたユダヤ人が「約束の地」カナンに戻ってきて、イスラエルとして独立宣言した。ベングリオンが初代首相となった。
マサダマサダの陥落、それが彼らユダヤ人が離散するきっかけになった場所であり、集団自決した場所であり、ユダヤ人にとっては特別な場所である。そして、20世紀に入ってドイツナチスによるユダヤ人虐殺(ジェノサイド)があった。
日本においても、太平洋戦争で沖縄集団自決があった。そして広島・長崎への原爆投下という日本人虐殺があった。
今の日本がこのような犠牲の上に成り立っているということでは、イスラエルと同じなのではないのだろうか。