じじぃの「人の死にざま_741_D・クロケット」

デイヴィッド・クロケット - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88/31687/
The Alamo - John Wayne's Epic Movie In Fourteen Minutes 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=lt1OYvBzqw0&feature=related
Davy Crockett Theme - Original Soundtrack by Dimitri Tiomkin 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qHQv8NYHaNU&feature=related
デイヴィッド・クロケット ウィキペディアWikipedia)より
デイヴィッド・クロケット(David crockett、1786年8月17日 - 1836年3月6日)はアメリカ合衆国の軍人、政治家。テキサス独立を支持し、アラモの戦いで玉砕した。アメリカの国民的英雄である。一般にはデイビー・クロケットとして知られる。
【テキサス革命】
クロケットは下院議員時代に親交を深めたサミュエル・ヒューストンにも影響され、1836年1月14日にはテキサス暫定政府との書類に調印しテキサス革命に正式に参加、2月6日にアラモの守備のためサンアントニオに到着した。
2月23日から開始されたアラモの戦いでは指揮官ウィリアム・トラヴィスの下、教会前面の木柵の防御を担当していた。しかし、ジェームズ・ボウイの病状悪化や援軍が来なかったこともあり、3月6日にアラモは陥落した。クロケットはメキシコ大統領サンタ・アナに捕らえられ、処刑された。
アラモの戦い ウィキペディアWikipedia)より
アラモの戦いは、テキサス独立戦争中の1836年2月23日 - 3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テクシャン反乱軍)の間で行われた戦闘。テキサス側の拠点とされ戦闘の舞台となったアラモ伝道所はテキサス州サンアントニオ中心街の一角に遺跡がある。

                                                  • -

あらすじ 解説 アラモ goo 映画
1960年、ジョン・ウェイン監督・主演の映画『アラモ』でも知られるこの砦は、メキシコ領であったテキサスの独立と、アメリカ合衆国への併合、その後に続くアメリカ・メキシコ戦争など、アメリカ大陸の歴史を動かす発端となった場所。「リメンバー・ジ・アラモ(アラモを忘れるな)」をスローガンに、数千のメキシコ軍にたった200人足らずで闘った男たちの物語は「アメリカ賛歌」型の映画であるに違いないのだが、本作では、ヒーローたちはより人間らしいキャラクターとして描かれ、敵であるサンタアナ将軍のエピソードも取り入れるなど、かつて映画化された「アラモ」とは別の視点を強調している。
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD5770/story.html
『伝説のアメリカン・ヒーロー 西江雅之/著 岩波書店 2000年発行
デイビー・クロケット 半身馬、半身鰐の英雄 (一部抜粋しています)
人間たるもの、ウソはいけない。ウソは根拠がないのに、話だけは真実味を帯びている。ホラはどこかに根拠がある。ただ、話が自由奔放にデッチあげられているというだけだ。ホラは人々に夢と希望を与えるようなものであったならば美しい。語り手の人徳の掲載にすら一役買うものとなる。
デイビー・クロケットの人生は、わずか3歳にして森で出会った大熊と闘い、それを殺したことから始まったと伝えられている。日本の金太郎は、熊と相撲をとっただけである。しかもその金太郎は当時の彼より年上であった。
デイビー・クロケットは、テネシーが州として認められる10年ほど前に、その地域の東部に生まれた。12、3歳の頃に家出し、3年ほど各地を放浪、やがて家に舞い戻ると、1、2年は真面目に働いた。18歳で小学校に入学した。入学の動機は失恋である。その原因が学歴不足にあると思い込んだためだと彼は言う。しかし勉強は恋には役に立たないと気づいた彼は、6ヵ月で学校をやめてしまった。学歴はそれだけである。
森や野を駆け巡って日々を送るデイビー・クロケットは、やがて荒野の王者となった。彼は、当然、信じがたいほどの射撃の名手となっていた。しかし、彼はその腕を使う必要もなかったと自慢する。何しろ、獣たちは彼を見ただけで驚いて勝手に死んでしまったからである。荒野の王者ともなれば、威風堂々、向かう所に敵なしと決まっている。寝る時のイビキですら、野獣の吠え声のように荒々しく巨大なものだった。それがうるさくてたまらないので、彼は寝るときはいつも自分自身から離れて他人の家に寝たものだと周囲の人々に話している。上出来のホラである。彼の話には、黒人やインディアンに関して人種的偏見だと感じられるものもある。しかしその時代は、話し手も聞き手もそうしたことには特別な意識を持たなかった。彼が生活していた時代の世界は白人たちのものであった。
それからのデイビー・クロケットは、インディアンを抱きこんでアメリカに挑んでいたイギリス軍との闘いに、斥候(せっこう)兵として参加した。そこでも彼は、ありそうもない冒険談をいろいろと創り上げた。後に大統領になったジャクソンに共感して、政治に目覚めたデイビー・クロケットは、持ち前の行動力とホラ話を武器にして選挙に出馬、農村や町の人々に開拓者魂を思い出させ、夢を与えた。
彼はテネシー州選出の議員となり、やがて合衆国の民主党員として下院議員の座を得ることにもなった。しかしインテリ議員のようにフロックコートに身を固め、儀式ばった振る舞いで会議室に立つという人間ではなかった。鹿皮の服に身を包み、洗い熊の尻尾飾りをつけた帽子を被り、「わしは半身が馬、半身が鰐で出来た男なのだ」と名乗りを上げた。情熱を込めたホラ話を添えて議事に口を差しはさんだ。政治的行動力にも優れた人物であった。
デイビー・クロケットの人生の幕は、アラモ砦での壮烈な戦死で閉じられた。野生味にあふれる男であった彼には、都会風の策略と偽善に満ちた政治の世界は向いていなかったのだろう。ジャクソン大統領の政策にも反対するようになっていた。結局、彼は自分の力と直結して生きることができる荒野へとも戻ったのである。真相は謎のままである。

                                                  • -

David crockett Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=hts&oq=&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=David+crockett&oi=image_result_group&sa=X