まぼろしの邪馬台国 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=f8psidJq6Wg
邪馬台国伝説の舞台? 吉野ケ里遺跡 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ymstBEzPYUw
箸墓古墳 HD 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DE-gGo5K8qI
歴史秘話ヒストリア 「女王さま 振り向いて! 〜最新研究!邪馬台国・卑弥呼のヒミツ〜」 2011年10月26日 NHK
●エピソード1 卑弥呼は モモがお好き? 女王が治めた国のヒ・ミ・ツ
2009年、奈良県・纒向遺跡で発見された高床式の建物。3世紀の遺構では最大のものです。この大建築の主が卑弥呼なら…寝室は16畳? 好物はモモにサバ? 不思議な”マジック”で国をまとめたという女王の素顔に、どこまで迫れるのか?
●エピソード2 邪馬台国探しに行こう ブームをつくった 夫と妻の愛
南は沖縄から北は新潟まで「邪馬台国」候補地は全国80ヵ所以上。わが故郷こそ邪馬台国と各府県市町村はしのぎを削っています。そもそも邪馬台国ブームの源は九州出身だった一組の夫婦の旅でした。盲目の夫と彼を献身的に支えた妻は、誰も気づかなかった方法で邪馬台国を”発見”します!
●エピソード3 卑弥呼殺人事件を追え S字ガメのヒ・ミ・ツ
卑弥呼は誰かに殺された? 最初に他殺説を唱えたのは推理小説の帝王・松本清張でした。最新の考古学成果によって、清張の説はふたたび脚光を浴びます。有力容疑者の名は、えっ、ヒミコ?じゃなくてヒミココ?出身は尾張ナゴヤ…?!
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/103.html
卑弥呼 ウィキペディア(Wikipedia)より
卑弥呼(170年頃 - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
邪馬台国 ウィキペディア(Wikipedia)より
邪馬台国は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。ちなみに、ここで使われている国とは、この時代の中国漢文でいう国=塀、柵、堀などで囲われた砦の町のことである。 中国の史書では、邪馬台国は卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされている。邪馬台国の所在地が九州か近畿か、21世紀に入っても日本の歴史学者の説が分かれている。
【位置に関する論争】
厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに素直に距離と方角を辿ると邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きつく。ゆえに、距離と方角をなんとか日本列島内に収めようとして、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。
そうして、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南を参照)と「九州説」(白鳥庫吉を参照)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した”とする説(「東遷説」)と”移動しなかった”とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。
それ以外にも、久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「女王国」と、「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「邪馬台国」とは別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする。
宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。
従来は畿内で邪馬台国の時期にあたる遺物がそう出土しないのに比べ、九州では邪馬台国の時期にそうそうたる遺跡遺物がそろうことから、畿内説は考古学的に根拠が薄弱であるとされてきた。しかし、2000年を過ぎたころから纏向遺跡と箸墓古墳を邪馬台国と卑弥呼の墓に結び付け大和朝廷の成立時期をさかのぼらせるよう、放射性炭素年代測定と年輪年代学による新しい考古学年代観が国立研究所によって示され、畿内の土器の放射性炭素の測定を国立研究所が行って畿内の大和地方での初期国家の成立が邪馬台国成立と同時代の1世紀から2世紀頃までさかのぼるとの説が強く推される傾向にある。この畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち「ヤマト王権」がこの時期既に成立しているとの見方ができる。
【畿内説の弱点】
1.年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていない。
2.倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する。
3.「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること。
4.「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然。
5.「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南側にあること。
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『21世紀の大発見!』 びっくりデータ情報部/編集 河出書房新社 2010年発行
箸墓古墳はやはり卑弥呼の墓か (一部抜粋しています)
周知のとり、かって日本には女王卑弥呼(ひみこ)が治める邪馬台国(やまたいこく)という国があった。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』をはじめとする中国の歴史書によると、卑弥呼は2世紀から3世紀始めころ、それまで戦乱の絶えなかった諸国が共通の女王として擁立した人物で、邪馬台国に都を構(かま)えたとされている。
だが、邪馬台国がどこにあったかというといまも謎のままであり、学者の間では長く近畿説と九州北部説が有力候補とされてきた。
その論争に一石を投じる研究結果が2009年5月に発表された。国立歴史民族博物館(歴博)の研究により、古墳時代の始まりとされる奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の築造年代が、240〜260年の範囲に相当することが明らかになったのだ。
240〜260年といえば、248年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と年代が一致する。そのため、箸墓古墳こそが卑弥呼の墓であるという説が一層強まることになる。
実は少し前まで、箸墓古墳の築造年代は4世紀ごろと考えられていた。これは宮内庁管轄の古墳ということで古墳本体の調査できなかったことが影響している。だが、周辺から出土した土器などを地道に研究し続けた結果、3世紀後半のものと特定できたのだ。
歴博の研究方法は、周濠(しゅうごう)から発掘された土器の表面に付着した炭化物を測定して年代を判別するという放射性炭素年代測定法である。科学的な手法だが、これに対しては、どこまで確実な年代を出せるのか疑問を呈する声も上がっている。
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どうでもいい、じじぃの日記。
10/26、NHK 『歴史秘話ヒストリア』で「女王さま 振り向いて! 〜最新研究!邪馬台国・卑弥呼のヒミツ〜」を観た。
2009年、奈良県・纒向遺跡で高床式の建物が発見された。発掘された土器の表面に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で測ったら、卑弥呼の死亡時期と年代が一致したのだそうだ。
「邪馬台国」は日本の最大のミステリーだ。
番組に、盲目の作家・宮崎康平氏が登場する。『魏志倭人伝』に書かれた記述を忠実に辿っていったら、島原の「吉野ヶ里」に行き着いた。
私は、手塚治虫の世代で、『鉄腕アトム』〜 からずっと手塚治虫の漫画を読んで育ってきた。
昔読んだ、手塚治虫の漫画『三つ目がとおる』の中に、人は水中に潜り、魚をとって暮らしていた。そして、水の中に入っている人は直立二足歩行していた。と、いうのがあった。これは「水棲説」(アクア説)と言われているものだ。
手塚治虫の『火の鳥』は江上波夫の騎馬民族説をもとに漫画が構成されている。火の鳥の女王、卑弥呼の舞台は熊本である。
『魏志倭人伝』の中に「男子無大小皆黥面文身」というのがある。
番組でも、倭の国の人として顔に「いれずみ」をした男性が出てきた。「いれずみ」は海の守り神である。
『魏志倭人伝』の中の「南至投馬國水行二十日」の南がどうして「東」にある奈良の方角を指すのか。南は南九州ではないのか。
邪馬台国はどこにあったか?
邪馬台国は西暦220年ごろまで南九州の熊本に都があって、西暦220年ごろに奈良盆地に卑弥呼と一緒に東遷したのである。
彼ら邪馬台国の人々は海で暮らしていた。奈良盆地に移り住み農耕をするようになって、「いれずみ」という風習はなくなっていったのである。
めでたし。めでたし。 (^^;;