じじぃの「人の死にざま_735_鄭和」

鄭和 - あのひと検索 SPYSEE
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オーパーツ@ピリ・レイスの地図 動画 YouTube
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鄭和〜現代CEO 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=toK5oEDb-jM
鄭和下西洋 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ycR2zHaRPt4&feature=related
鄭和の巨艦とコロンブスの帆船の模型

世界・ふしぎ発見スペシャル2005春 2005年4月9日 TBS
【司会】草野仁小林麻耶 【ゲスト】黒柳徹子板東英二野々村真、その他
オーパーツの部屋
オーパーツとは、その時代の科学力では作ることができない、到底あり得ないふしぎな品々のこと。日本語では「場違いな工芸品」とも訳される。
例えば「古代エジプトのグライダー」と呼ばれる遺物は、紀元前2000年のもの。そんな遠い昔、今にも飛び出しそうなグライダーの形をした物体がなぜ作られたのか? 16世紀に作られたとされる「ピリ・レイスの地図」には、当時まだ発見すらされていない南極が描かれている。いったいなぜか?
明の鄭和の大航海の際に書かれた地図が、この「ピリ・レイスの地図」の元になったのではないか?

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鄭和 ウィキペディアWikipedia)より
鄭和(ていわ、1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったといわれる。
歴史的評価
この大航海はヨーロッパの大航海時代に70年ほど先んじての大航海であり、非常に高く評価される。彼は後世に三保太監・三宝太監と呼ばれ、司馬遷蔡倫と並んで宦官の英雄として語られる事になる。また鄭和が寄港した各地の港でも鄭和の評判は非常に高く、ジャワ・スマトラ・タイには三宝廟が建立されて祀られている。
鄭和艦隊は当初からマラッカ海峡に建国されたばかりのマラッカ王国をインド洋渡航のための根拠地として重視し、マラッカ国王を招撫した。このため、マラッカ王国鄭和艦隊の保護下で成長し、中国艦隊の来航が途絶えた後も東西貿易の中継港として繁栄を極めた。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行
中国 航海術 (一部抜粋しています)
水運は、昔から中国人にとって重要であり、唐代の漕運制度は、国家の統一と繁栄を助けた。異民族の華北侵略によって中央アジアとの交易が途絶えたのち、杭州に首都を置いた宋王朝は、繁栄の手段として海外貿易を発展させる必要があった。そこで政府は、海賊から商人を保護するために市舶司を設置した。
船舶技術の発展は中国人によって推進された。中国人は船尾に舵(かじ)を固定することを発明したが、この舵はAD1世紀のものとされる土製の船の模型に見られる。また、彼らは船の防水区画の原理を導入し、さらに船を外輪車によって推進させることも開発した。5世紀にはそれについての記述も見られる。明初には海軍力が結集され、大艦隊が東インド南インドペルシャ湾、紅海、さらに遠くアフリカ東海岸ケニアまで遠征した。艦隊は、ときには長さ120mで4つの甲板のある巨大なジャンクによって編成された。この大遠征の指揮官は宦官の鄭和である。宦官は、一般に宮廷に仕えていたが、使節団が皇帝自身から派遣されたものであることを強調するために、しばしば選ばれて遠征隊を指揮した。これらの使節団は、中国の富と力を誇示し、また東アジアの最強国としての地位を主張するために役立った。

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『文明の主役―エネルギーと人間の物語』 森本哲郎/著 新潮社 2000年発行
風に乗るシンドバッド (一部抜粋しています)
「ハルン・アル・ラシードの御大」といえば、8世紀末から9世紀にかけてのころである。とすると、そのころ、すでにアラビアの商人たちは、港町バスラを拠点に、紅海、アラビア海から、インド洋へ船出していたことを語っていよう。むろん、シンドバッドの物語は空想の産物であるが、そのなかには、サランディーブ島、すなわちスリランカの話も出てくるし、また、実際に、アフリカへ航海したにちがいないと思われる体験談も語られている。彼らは、すでに海洋の覇者だったのだ。
シンドバッドの7回にわたる航海、それは奇しくも、明の時代に第船団を率いて中国からアフリカ大陸まで荒波を乗り切った鄭和を思わせる。というのは、時代は下るが、中国のこの大航海者も、前後7回にわたって大洋に挑戦したからである。
1405年、彼は成祖(永楽帝)の命を受け、62隻の船に2万7000余の乗組員を分乗させてインド西海岸のカルカッタまで達している。それが第1回目の航海だった。これにつづき、鄭和は28年のあいだに、南海からベンガル湾アラビア海を往来し、中国と東南アジア諸国、インド、アラビア、アフリカを結ぶ、いわゆるインド洋貿易の大ネットワークをつくりあげる。その航行の様子は、まさに舷々(げんげん)相摩(あいま)す”大艦隊”の移動だった。かれの率いる船団は、第2回目には、なんと249隻にのぼったという。明時代の中国は、当時、ヨーロッパ諸国が持っていたよりも多くの船を擁していたのである。
しかも、その規模が違う。中国の外洋船は長さ150メートル、幅60メートル余という巨船で、これは、のちのスペイン無敵艦隊を構成する軍船の2倍近くもあるのだ。そうした船団がアフリカ東岸まで出現したのだから、それから数十年もあとにバスコ・ダ・ガマ喜望峰を回って、やっと東アフリカの港にたどりついたとき、彼らポルトガル人たちが、そのような貿易船の活況に度肝を抜かれ、4階、5階と立ち並ぶ港町の見事さに驚嘆したのもむりのないことだった。
マリンディ(東アフリカの港のひとつ。現・ケニア)の住民もおどろいた。よくもまあ、こんな小っぽけな船で海を渡って来れたものだだと、それに仰天したのである。バスコ・ダ・ガマの船は中国船の4分の1にも満たなかったからだ。しかも、たったの3隻!
海洋の制覇において、中国とヨーロッパとでは、とうてい比較にならなかった。

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