じじぃの「人の死にざま_721_吉村・昭」

吉村昭 - あのひと検索 SPYSEE
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20110311三陸海岸沿い大津波 動画 YouTube
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吉村昭 三陸海岸津波 画像
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増刷続く吉村昭さん「三陸海岸津波」 印税を被災地に 2011年5月9日 asahi.com
戦艦武蔵」などで知られ、2006年に死去した作家吉村昭さんが40年前に発表した記録文学三陸海岸津波」が東日本大震災以降、増刷を重ねている。三陸沿岸を襲った3度の大津波を題材にした作品。妻で芥川賞作家の津村節子さん(82)=東京都三鷹市=は、増刷分の印税を被災地に寄付している。
三陸海岸津波」(原題は「海の壁――三陸沿岸大津波」)は1970年、旧中央公論社から出版された。2004年以降、文春文庫版で5万部が出ていたが、東日本大震災後に全国から注文が相次ぎ、この2ヵ月間で15万部を増刷している。
http://www.asahi.com/national/update/0509/SEB201105090003.html
吉村昭三陸海岸津波』から学ぶ。 あなたは読者から著者になる ウェブリブログ
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吉村昭 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
吉村昭(よしむらあきら、1927年(昭和2年)5月1日 - 2006年(平成18年)7月31日)は、東京府出身の小説家、日本芸術院会員。
【作風】
初期の作品は死をテーマにした緻密な光景描写の短編小説が多く、そのなかで『星への旅』は太宰治賞を受賞した。その後『戦艦武蔵』がベストセラーとなり歴史小説作家としての地位を確立した。歴史小説では、『戦艦武蔵』にも見られるように、地道な資料整理、現地調査、関係者のインタビューで、緻密なノンフィクション小説(記録小説と呼ばれる)を書き、人物の主観的な感情表現を省く文体に特徴がある。NHKの『プロジェクトX?挑戦者たち?』をはじめ、TV番組の原作や題材に用いられることも多く、題材も江戸時代から現代(昭和中期)までの事象や人物を対象としていた。
また、海を題材にした歴史小説を多く書いており、徹底した史実調査を行っている。『戦艦武蔵』に端を発する、近代日本戦史を題材とした「戦記文学」というジャンルを確立したのは吉村であるとも言われており、史実と証言の徹底的な取材と検証、調査を基にした事実のみを描いていたが、1980年前後を最後として近代以前の歴史作品に軸を移すようになった。これを吉村は自筆年表で「多くの証言者の高齢化による死」を理由に挙げている。事実を見すえた実証的な作品が書けなくなったことで、戦史を書くことはなくなった。1980年以降に次々と発表されたものは近代以前の俗に歴史ものと呼ばれる作品群であったが、磯田光一は「彼ほど史実にこだわる作家は今後現れないだろう」と言っており、フィクションを書く事を極力避け、江戸時代のある土地の特定年月日における天気までも旅商人の日記から調査して小説に盛り込むということまで行っている。また、当時の文壇では珍しい速筆の作家としても知られていた。担当編集者が締め切り日に彼の自宅に赴くと、必ず金庫の中には完成した原稿が用意されていた。

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文藝春秋 2011年7月号
発掘テープ 吉村昭の予言 『三陸海岸津波』 吉村昭/著 文春文庫 (一部抜粋しています)
徹底した調査に基づき、数々の災害や戦争を記録文学として著した作家の吉村昭氏(2006年没)。氏は『三陸海岸津波』(文春文庫)のあとがきで、「岩手県三陸海岸にある(田野畑村の)羅賀(らが)という地に建つホテルで、津波についての講演をした」と振り返っている。集まった地元民のほとんどは明治の大津波を体験しておらず、吉村氏が「50メートルの大津波が羅賀を襲った」と語ると、驚きの表情を見せたり、怯えた目を海に向けたりしたという。
今回、小誌はその貴重な講演録を発掘した。01年1月23日、三陸国道事務所主催のシンポジウムで、吉村氏は「災害と日本人」というテーマで基調講演を行っていた。
ところが、それから10年後。東日本大震災でも、約30メートルの大津波田野畑村を襲い、死者17名、行方不明者22名(4月末現在)を出した。羅賀地区では半数の家屋が全壊し、氏が講演した「ホテル羅賀荘」も4階まで浸水。吉村氏の予言をなぞるかのように、悲劇は繰り返されてしまった――。
私は今回の講演を引き受けますのに、ある使命感といいますか、私でなければ話すことができないというような自負を持っております。
と思うしますのは、明治29年の大津波、これは今から105年前ですが、私はその体験者お2人からお話をうかがっております。今から考えると、たいへん貴重な経験をしたと思っております。
私はご紹介いただきましたように、三陸津波について調べました。さらに、明治以後最大の災害である関東大震災を調べ、ドキュメントとしてまとめたこともあります。
そういうことから今日は、災害の時、道路がどういう意味を持っているのか。
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災害の時、いちばん大事なのは道路です。
関東大震災の時、家財を積んで逃げた人がたくさんいます。本所の被服廠跡というところがあり、そこは広い土地ですから4万人が避難しました。そこに逃げた人が、実に3万8000名亡くなっています。
そこで生き残った人にも会いましたし、私はその直前の写真も見ました。そうしたら、家財の山なのです。大八車で運んだ家財がいっぱいで、その中に人間がはさまっているようようなものでしたが、それが全部燃えたのです。
その大八車が家財を積んで道をふさいでしまった。消防車が通れないし、人も通れない。家財がみんな燃える。ですから、道路は道として確保しなければいけない。

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吉村昭の句
胃カメラを のんで炎天 しかと生く」

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