グリエルモ・マルコーニ - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8B/1988/
Guglielmo Marconi 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SIoS1zEdLck
被災地を救ったアマチュア無線 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nTRwGIsh9pE
無線通信
http://www.dia.janis.or.jp/~nasimoto/tuusin/musen.htm
グリエルモ・マルコーニ ウィキペディア(Wikipedia)より
グリエルモ・マルコーニ(1874年4月25日ボローニャ-1937年7月20日ローマ)は、イタリアの無線研究家、発明家である。無線電信の開発で知られている。マルコーニ無線電信会社を創立した。1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞した。1924年、侯爵に叙爵された。
1937年、ローマで心筋梗塞により死去。イタリアで国葬が執り行われた。弔意を示すため、世界中の無線局が2分間沈黙した。遺体はエミリア=ロマーニャ州のサッソ・マルコーニに埋葬された。なお、このコムーネの名は1938年、マルコーニにちなんで改称されたものである。
【特許紛争】
マルコーニの業績は他の様々な科学者や発明家の成果の上に成り立っている。彼の火花送信機とコヒーラ検波器も先人が設計したものと似ており、特にオリバー・ロッジが行った一連の公開実験(1894年)の装置によく似ている。マルコーニはこの組み合わせで最も遠距離まで信号を届かせることができると主張していたが、ニコラ・テスラなどはその点についても異論を述べている。
1900年、アレクサンドル・ポポフはロシアの電気技術者会議で「マルコーニの行っている電気振動による信号の送受信は、まるで新規性がない。アメリカでは、1893年に有名な技術者ニコラ・テスラが同じ実験を実施している」と述べている。
イタリアのファシスト党は無線通信技術の創始者をマルコーニだとした。彼の貢献が特許に値するかどうかについては異論もあり、ヘルツ、ブランリー、テスラ、ロッジといった先人の発明に似すぎているという指摘もある。
アレク・サンドル・ポポフ ウィキペディア(Wikipedia)より
アレクサンドル・ステファノビッチ・ポポフ(1859年3月16日-1906年1月13日)は、無線通信の発明者である。
ロシアのクロンシュタット海軍兵学校の物理学教授だった1895年に、自身の続けて来た雷の研究からヒントを得て空中線(アンテナ)を使用し、無線通信を発明した。 同時期にマルコーニも特許出願しており、一般的な知名度はこちらの方が高いが、ポポフの公開実験はマルコーニが成功する実験より4月ほど早かった。また、マルコーニは実際に実験に成功したのではなく、ポポフの公開実験をボローニャ大学の教授アウグスト・リーギから聞いて出願したという説がある。 しかし、当時の海軍上層部が先見性に欠けていたため普及に時間がかかり、1905年の日露戦争では、ロシア海軍は三六式無線機を使用した大日本帝国海軍に敗北した。敗因は多々あるが、さまざまな分野に技術的・科学的先駆者を抱えながら、保守的な為、彼らに充分に力を発揮させられなかった当時のロシアの国情はその一つと言えよう。
現在もマルコーニは「無線電信の父」と呼ばれているが、その業績はあくまでも「無線通信の構成要素をシステムとしてまとめて商業化に成功した」という限定的なものではないだろうか、という意見がある。一方で、C・サスキンド(カリフォルニア大学バークレー校)は困難な実験をし続けたポポフの功績を讃えながらも、マルコーニの特許出願前にポポフの無線装置での具体的な文言がないこと、実験は1895年でなく1896年ではないか、違う業績を広めようとする活動があったとしている。 ちなみに昔から海軍と無線通信は縁が深いものであり、アメリカのサンディエゴがコミュニケーションバレーと呼ばれ、横須賀に通信関係の研究所が集まっているのもごく自然なことなのである。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
『誰が本当の発明者か』 志村幸雄/著 ブルーバックス 2006年発行
無線電信 西のマルコーニ VS.東のポポフ (一部抜粋しています)
無線電信の発明者といえば、私たちの常識では10人が10人、イタリア人マルコーニの名前をあげるに違いない。実際にマルコーニは、1909年に「無線電信の開発に対する貢献」を理由にノーベル物理学賞を受賞している。
一方、ロシアではポポフが無線電信の父として知れ渡っている。彼が最初の無線電信の公開実験を行った5月7日(1895年)は、ロシアでは「無線の日」とされている。
筆者の体験でも、東西冷戦時代にソ連や東欧諸国を訪ねると、ポポフの名を冠した研究機関や工場がやたらに多かったのを思い出す。そのいわれを聞くと異口同音に「われわれの研究の先覚者ですから」という答えが返ってきた。ポポフ説は国威高揚のためのデマゴギーなのか。
ところが電気通信技術史の文献でも「マルコーニによる無線電信の成功は1896年だが、ポポフはその前年の95年にマルコーニ同様、コヒーラー(検波器)を用いて通信実験に成功している」といった記述を見ることができる。とすると、ポポフ説をデマゴギーと断ずるのは早計のように思える。
その当否はひとまず置くとして、マルコーニとポポフがほぼ同時期に実験に成功しているのは間違いない。自動車や電話の発明にしてもそうだが、このような世界的大発明が、異なる人物によって、ほぼ同時期に成し遂げられることがよくある。
・
グリエルモ・マルコーニは、1874年、イタリアのボローニャで裕福な地主の子として生まれた。それほど目立つ子供ではなかったが、少年期を迎えると化学や物理学に関心を持ち、とくに電気に夢中になった。学校教育は受けなかったが優秀な家庭教師から学び、20歳になると、自分の時間の大半を科学の勉強に費やすようになっている。
1890年駄の半ば、亡くなったばかりのヘルツの研究論文をたまたま目にする。それからまもなくのある秋、1つのアイデアが浮かんだ。当時の電信や電話ではいずれも導線を伝わって電気信号が送られている。それなら電磁波によっても信号を信号を送れるはずだ。さらに彼は、この無線電信のアイデアを自らの手で実現しようと決心する。研究には、ボローニャ大学教授のアウグースト・リーギの指導が役立った。
無線電信を実現するためには、強力な発信機と空間へ放射する効率の高い放射装置、そして感度の高い受信機が必要である。このうち発信機については例の電気火花発生装置(感応コイル)を使い、放射装置としてはアンテナを高く張り、一方で接地(アース)することが有効なことが分かった。
問題は受信機だが、これには研究用に使われていたコヒーラーが役立つことが分かった。コヒーラーは、ガラス管の中に2つの電極を廃止、その間にニッケルや銀の金属粉末をゆるく詰め込んである。電磁波がやってくると粉末が密着して電気抵抗が大きく減少し、電気をよく伝える。これを受信機に使おうというわけだ。
コヒーラーの原理は、パリ大学教授エイドワール・ブランリーが1890年に発見した。このためフランスでは、彼こそが無線通信の発明者だという愛国的な主張もある。
ただし実際にその有効性を見出したのはブランリーではなく、リヴァープール大学のオリヴァー・ロッジである。ロッジは、金属粉末が電磁波により密着する(cohere)との意味を込めて、この装置をコヒーラーと命名し、電磁波の検波器としての可能性も示唆している。
マルコーニは装置を組み立て、1895年には3甲斐から電波を飛ばして地下室で受ける実験を繰り返している。その実験はだんだん拡張し、翌年には約2キロの距離でモールス信号による送受信に成功している。
・
マルコーニの業績には時代を画する技術革新の息吹が漲っており、だからこそノーベル物理学賞を受賞した。ノーベル賞は、今日すでに100年の歴史を数えるが、正規の大学教育を受けていない一技術者が自然科学部門の賞を受けた例はきわめて少ない。
しかしマルコーニの評価が高ければ高いほど、逆に、マルコーニに先んじたとされるポポフの存在が気にかかる。
アレク・サンドル・ポポフは1859年生まれのロシア人科学者で、ペテルブルグ大学教授などを務めた。それより前の水雷学校教員時代に、ロッジのコヒーラーの報告を読んだポポフは、これを使えば無線電信装置ができると直感的に考えた。
コヒーラーは、一度導通するとその状態を持続する性質があるから、次の信号を受信するために、いったんその導電状態を切る必要がある。ポポフは、リレーと電鈴の原理を応用することにより、前の信号が終わると鉄球でコヒーラーを叩いて金属粉末を元の状態に戻し、連続受信ができるように工夫した。
また、送受信の効果を上げるためにアンテナを使っている。これらはマルコーニの装置とそう大きな違いはない。
ポポフは1895年に独自の無線電信装置を製作し、ペテルブルグ大学構内で実験を公開、数キロの通信に成功したとされている。さらに1897年には、海軍と共同で最初の無線局をクロンシュタットに設置した。この無線局の設置で沖合5キロまで送受信が可能になり、99年のロシア軍艦の座礁事故の救助活動などに一役買った。
これを知った一部の欧米企業家がポポフに特許権の譲渡を求めた。しかしポポフは、自らの夢を祖国ロシアで実現したいと念願して、提携の申し入れなどを含めていっさいの要請を断った。
だが、近代化の遅れた当時のロシアでは、政府の理解など望むべくもない。結局、無線電信の発展・普及は他国に委(ゆだ)ねることになってしまった。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
Guglielmo Marconi Google 検索
http://www.google.co.jp/images?sourceid=navclient&aq=hts&oq=&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=Guglielmo+Marconi&oi=image_result_group&sa=X