じじぃの「人の死にざま_711_J・スワン」

100+ year old carbon filament light bulb 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=c3FEkNJiYpY&feature=related
スワン 白熱電球 画像
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エジソン 白熱電球 画像
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ジョゼフ・スワン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
サー・ジョゼフ・ウィルスン・スワン(1828年10月31日-1914年5月27日)はイングランドの物理学者、化学者。その最も良く知られた業績は、白熱電球の発明である。
【電灯】
スワンは1848年ごろには既に白熱電球の実験に取り組んでいた。減圧したガラス球の中に炭化した紙製のフィラメントを入れるというコンセプトであった。1860年までには試作品を実際に発光させることに成功し、不完全真空・炭素フィラメント・白熱電球の特許をイギリスにおいて認められた。だが彼の電球は、充分な真空度および電力供給が得られなかったことから、小型化と長寿命化は果たせなかった。
15年後(1875年)、スワンはより優れた真空引き技術と炭素フィラメント(木綿糸を苛性ソーダで処理したのち炭化させたもの)をもって、電球の問題に再び取り組んだ。彼が開発した電球の特筆すべき点は、ほぼ真空である球内に微量の酸素を残留させていたことで、これによりフィラメントは燃えることなく定常的に白熱し、発光した。耐久性に関しても、1878年12月には40時間の寿命を達成した。しかしながらスワンのフィラメントは電気抵抗が小さいものだったため、電力の供給には太い銅線を必要とするという短所があった。
【写真術】
湿板写真に取り組んでいる際、スワンは臭化銀感光剤の感光度が熱によって増進することに気付いた。彼は1871年までには湿板の乾燥化法を考案し、写真術の世界に簡便性の時代をもたらした。8年後、彼は印画紙(今日に至るまで使用され続けている)の特許を取得した。

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『誰が本当の発明者か』 志村幸雄/著 ブルーバックス 2006年発行
白熱電球 発明王に呑み込まれたスワンの独創 (一部抜粋しています)
明王といえば誰しもエジソンの名をあげるだろう。そして彼の数々の発明品の中でも、白熱電球の発明はとくによく知られている。ところが、電球の歴史をひもとくと、意外な事実が浮かび上がる。
ゼネラル・エレクトリック(GE)社刊の『電球年代記』には、「電球殿堂入り発明家名簿」が収録されている。そこには、19世紀に電球の発明に功績のあった25人がリストアップされている。当然、エジソンの名前が最初に出てくるかと思いきや、いちばん初めに登場する人物はハンフリー・デイヴィーである。発明の年代順ということもあるが、エジソンは、なんと最後尾の25番目なのだ。
最後尾のエジソンが、なぜ電球の発明者としての名声を一人占めにできたのだろうか。そこには発明家としてのエジソンとは別の、抜け目ない企業家としてのエジソンの姿が見えてくる。
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白熱電球は、炭素の細線や白金のような金属線(フィラメント)に通電し、高温で発光させる。デイヴィーも1810年、白金の細線に電流を通じて白熱することを確認している。この種の細線は、アーク灯に比べてずっと電流を食わず、しかも柔らかで安定した光が得られることが分かっていた。
白熱電球の実質的な発明者は、英国生まれの化学者ジョゼフ・スワンである。
白熱電球の第1の課題は、少ない電気で安定して発光するフィラメント材料を見つけることである。1848年頃というから、アーク灯が実用化される以前のことだが、スワンはさまざまな材料でフィラメントを作り、そこに電流を流し、加熱によって生じる発光を利用しようと考えた。
また、このフィラメントの酸化を防ぎ長寿命化を図るため、ガラス管の中を真空にするか、または不活性の期待を封入するかが、もう1つの課題だった。当時、不活性ガスは窒素が知られていたぐらいで、アルゴンもヘリウムもまだ発見されていなかった。そこで真空法が主流になったが、当初は真空度も低く、不完全なものが多かった。スワンも真空に着目し、40年代の実験ですでに試みているが、結果は思うに任せず、研究は中断状態に陥っていた。
それが60年代に実験を再開したのは、H・シュプレンゲルが高真空の水銀ポンプを開発して、ようやく実用化の道が開かれたからである。
スワンは、木綿糸を苛性ソーダに浸して繊維に弾力性を持たせ、これを乾燥した後、炭化させてフィラメントとした。また、これをガラス管に封じ込める際には、徐々に真空にしながら加熱してフィラメントの内蔵ガスを放出させるなど、徹底した排気処理を施した。
これによって白熱電球の寿命が40時間に延び、本格実用化への足場が築かれた。1878年のことだ。彼は、その成果を地元英国のニューカッスル文芸哲学協会で公開し、科学誌『サイエンティフィック・アメリカン』にも発表している。
ト−マス・アルヴァ・エジソン白熱電球の開発に着手したのは、スワンの発明の翌年の1879年のことだ。エジソンは明らかにスワンより出遅れていたが、後世に残るいくつかの発明を生み出し、そして何よりもその普及に貢献した。
エジソン白熱電球の鍵がフィラメントにあることを突き止め、さまざまな材料で実験した。当初は高融点で延性に富んだ白金に着目したが、高価なことが欠点だった。そんな折にスワンの論文を目にして、炭素フィラメントを選ぶことになる。
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このように、白金から炭素の竹への転換は、科学者より技術者、技術者より事業家としてのエジソンに目線が働いている。
事業化といえば、エジソンは単に白熱電球の発明にとどまらず、早くから発電・送電システムも視野に入れていた。1つの電源でたくさんの電灯を灯すのが電気照明の本領、とエジソンは考えた。後年、ある記者から「あなたの最大の発明は何だったのか」と問われて、「白熱光による照明と送電システム」と返事をしている。
エジソン1878年、ニューヨークにエジソン電灯会社を設立、白熱電球の生産はもちろん、発電から送電までの事業化を図っている。ちなみに、スワンも自ら発明した電灯の普及を図るため発電所を建設しているが、規模でははるかに小さかった。
エジソンとスワンは特許紛争をいく度か繰り返している。とくにエジソンがロンドンに進出して発電所をつくろうとした際には、スワンが急遽特許を申請し、間一発でエジソンの英国特許取得を阻止した。エジソンは争うより協力するほうが互いの利益になると判断し、83年に、エジソンとスワンの名称を重ねたエジスワン社を設立、英国での共同事業化を図っている。
だが、エジソンが電球の口金を自ら考案のねじ込み式にしようとした際には、スワンは強く抵抗し、自己流の差し込み式で押し通した。以来、英国では今に至るまでこのスワン式電球が使われ続け、白熱電球の発明者はスワンだと信じられている。

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