じじぃの「人の死にざま_689_パウロ」

パウロ - あのひと検索 SPYSEE
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パウロ教会(ローマ)でのミサ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mhWXGwDYhUM&feature=related
Christian Meditation - 7 Minutes to Knowing God 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=AlMbNoOhwOM&feature=related
Centering Prayers I Christian Meditation 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5iHVnsv-VPg&feature=related
パウロ ウィキペディアWikipedia)より
パウロ(英: Paul, ? - 65年?)は、初期キリスト教の理論家であり、新約聖書の著者の一人。キリスト教大発展のもともとの基礎を作った。 ユダヤ名でサウロとも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。
「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語では「パヴロス」)。「サウロ」という名前は、『使徒行伝』にもよく出てきており、彼自身「パウロス」と自称することからすると、ディアスポラユダヤ人のならいでギリシア名とヘブライ名の両方をもっていたのかもしれない。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、すべてのキリスト教会は彼を使徒と認め、正教会カトリック教会はパウロ使徒と呼び崇敬するが、イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。聖人であり、その記念日はペトロと共に6月29日(ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)。
日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロ首座使徒との呼称を以て崇敬する。
パウロの生涯】
新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロの職業はテント職人で生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。
ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、復活したイエス・キリストに呼びかけられ、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった(「目から鱗が落ちた」という言葉の語源)。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。(むろんこの事件はあくまでパウロ自身の主張にすぎず、使徒達や他の歴史的人物達からの証言は一切無いという意味でイエス・キリストの復活劇よりも信頼性に問題があるとの見方もできる)
その後、かつてさんざん迫害していた使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ人(キリスト教徒?)たちから何度も激しく拒絶され命を狙われたが、やがてアンティオキアを拠点として小アジアマケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながらバルナバやテモテ、マルコといった弟子や協力者と共に布教活動を行った。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られた。伝承によれば皇帝ネロのとき60年代後半にローマで殉教したとされる。またローマからスペインにまで伝道旅行をしたとの伝承もあるが、これは史実でないとするのが一般的である。

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『ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎大澤真幸/著 講談社現代新書 2011年発行
イエス・キリストとは何か (一部抜粋しています)
なぜ福音書がいくつもあるのかというと、福音書は、預言書(預言者の預言を記録した書物)ではないからです。預言書(たとえば、『イザヤ書』)は、預言者本人が書いた(ということになっている)ので、2冊あったりしない。予言者ひとりに、1冊ずつです。これに対して、イエスは、自分で書物を書かなかった。最後は十字架で死んでしまうという話ですから、本人がそれを記録するわけにはいかない。別人がそれを記録し、証言するというかたちにならざるをえない。
このように福音書は、イエス・キリストについて証言する書物なのです。その作者は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ。ほんとうに彼らが著者なのか、議論がありますが、いずれにせよ、イエスと会ったことのある人物か、その周辺の人物。まあ、ふつうの人間が、初期教会の伝承をもとに、ギリシャ語で編集したと考えられる。証言は、複数あったほうがよいと言えるわけで、結果的に、4つの福音書新約聖書に残った。
もう少し補足すると、キリスト教は、福音書によって成立したのじゃないんです。福音書は、キリスト教が成立したあと、聖書に選ばれた。では、いつキリスト教が成立したかというと、それは、パウロの書簡によってである。パウロが書簡を書いたのは、福音書の成立時期よりも古いんです。福音書を見ないで、パウロは書簡を書いている。そのときもう、イエスはキリストであり神の子だと確信していた。パウロが、イエスの十字架の受難を意味づける教理を考えたので、ユダヤ教の枠におさまらない、キリスト教という宗教が成立した。それが、福音書の編纂をうながしたという順番なのです。
福音書は、あちこちの教会でばらばらに伝わっていた、イエスの言動についての伝承をまとめたものです。どの教会も、自分たちの伝承は大事だから、それがぜひ聖書に入ってほしいと思ったでしょう。で、それらをひとつの書物にまとめるのはむずかしかった。そこで、4つの福音書と、パウロの考えた教理とを軸に、キリスト教が成立することになった。
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イエス・キリストは「神の子」だとする考え方を、確立したのはパウロです。パウロは、小アジア(今のトルコ)のタルソで生まれたユダヤ教徒で、ギリシャ語もうまく、ローマの市民権をもっていた。キリスト教徒迫害の急先鋒だったが、あるとき復活したイエスを見て「回心」し、熱烈なキリスト教徒として活動を開始。各地で宣教を続け、ローマで殉教した。その間、ローマ人への手紙、コリント人への手紙など多くの書簡を書き、それが新約聖書に収められています。
ようするに、「神の子」は「イエス・キリスト」と同じ意味ではなくて、もう一歩踏み込んだ考え方なのです。

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