じじぃの「人の生きざま_76_秋山・ちえ子」

訃報 秋山ちえ子さん99歳=評論家、ラジオで「談話室」 2016年4月12日 毎日新聞
放送ジャーナリストの草分けで、長寿番組「秋山ちえ子の談話室」(TBSラジオほか全国で放送)を40年以上続けてきた評論家の秋山ちえ子(あきやま・ちえこ、本名・橘川ちゑ=きっかわ・ちえ)さんが6日、東京都内の自宅で肺炎のため死去した。99歳。
http://mainichi.jp/articles/20160412/k00/00e/040/220000c
秋山ちえ子 | 隠居のつぶやき
http://green.ap.teacup.com/sizen/1027.html
まんかい(万回)の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/m/201002/1
ラジオ「秋山ちえ子の談話」 画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/47/61f9c266c16dae531d11085b199207b1.jpg
秋山ちえ子 ウィキペディアWikipedia) より
秋山ちえ子(1917年1月12日 - )は、ラジオパーソナリティ、エッセイスト、評論家。本名・橘川ちゑ。宮城県出身
【来歴・人物】
1917年(大正6年)生まれ。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)を卒業後、聾唖学校の教師となる。結婚後、中国に4年滞在。1948年〜1956年、NHKラジオ番組『私の見たこと、聞いたこと』のレポーターを担当し、主婦の視点から見た日本の現状をわかりやすく説明した。
その後ラジオ東京(現TBSラジオ)で『昼の話題→秋山ちえ子の談話室』のパーソナリティを1957年から45年間毎日担当。2002年に帯番組終了後も毎週日曜日に放送している続編『秋山ちえ子の日曜談話室』として続いていたが、それも2005年10月2日をもって終了した。この番組について報道機関各社の説明では「当初から3年間限定と決めていましたし、どこかでパッとやめた方が自分の信条に合っています」としている。このラジオ番組の回想録「風の流れに添って(ラジオ生活57年)」が2005年10月2日の放送最終日に講談社より出版された。現在は後進の師弟の訓育などに尽力。また2005年12月にNHKラジオ第1放送「きょうも元気でわくわくラジオ」に出演。2006年度からイレギュラーながらゲストとして同番組に不定期(2ヶ月に1度程度?)出演が決定。著書多数。
1954年に第2回日本エッセイスト・クラブ賞、1991年に第39回菊池寛賞、 1997年には東京都文化賞を受賞。
「野菜の花」(文京書房)、「82歳のひとりごと」「さよならを言うまえに」(岩波書店)、「風の流れに添って」(講談社)など30冊以上の著書がある。 最新刊「種を蒔く日々─九十歳を生きる」(講談社)。

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『種を蒔く日々─九十歳を生きる』 秋山ちえ子/著 講談社 2008年発行 (一部抜粋しています)
冷蔵庫と洗濯機
敗戦から10年たった1955年(昭和30年)頃になると「もはや戦後ではない」という言葉が聞かれるようになった。10年間の戦後の生活で「配給」「闇市」などが私たちの生活の支えになっていたことも過去の話になっている。
アメリ進駐軍が加わった日本人の戦後生活は10年の間に駈け足をしているように変った。家庭生活の主役の主婦たちの欲しいものは「電気冷蔵庫」「電気洗濯機」「電気炊飯器」、いわゆる「三種の神器」などと呼ばれるものであった。しかしそのころの公務員の月給は1万円に届いていなかったので、次々に発表される便利な製品は簡単には買えないものであった。
私は1955年10月から3ヵ月間、アメリカ政府の招待(リーダーズ・プログラム、各界のリーダーが3人ずつ招待される)でアメリカの各地を歩き、家庭生活、教育のことを主に見学した。
羽田空港からアメリカ行きの飛行機の中で出された「角砂糖」「キャンディ」などに胸をドキドキさせた。「子どもたちに食べさせたい」と思ったのだ。私は3ヵ月の旅行中にこうしたものを袋に入れてためた。3袋になった。日本に帰ると近所の子どもたちも呼んで「アメリカのおみやげ」とあげた。
アメリカでは各地で個人のお宅に招かれた。家中を見せることがアメリカ人の客へのもてなしかと思うほど、どのお宅でも台所、寝室、風呂場まで案内された。この旅の中で私が日本に帰ったら借金をしても買うぞと思ったのが、「電気冷蔵庫」と「電気洗濯機」であった。
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帰国後、私は早速、電気冷蔵庫を購入した。私が考えた以上に電気冷蔵庫は私を助けてくれた。しかし1つだけ日本的な使い方がされて、母と少しもめた。それは「もったいない」が口ぐせのような母は、残りものすべて冷蔵庫の中にしまい込むので、母の留守中か、夜遅く、時々冷蔵庫の中の整理が必要になる。「あら、また捨てられてしまった」という母の腹立たしげな言葉は聞こえないふりをした。
次は電気炊飯器、ありがたいものの1つだった。敗戦後、しばらく我が家は石油缶の横に穴をあけて「かまど」代わりに使った。2度の空襲で焼け野原となった東京の実家の敷地にバラックをつくって生活していた頃、小学生だった2人の男の子は焼け跡から木片や木の枝を拾ってきて、ご飯を炊いた。母は孫たちに「かまど炊き」の要領を教えた。
「はじめチョロチョロ、なかパッパ、・・・・最後は"ばばさま"とんできて藁(わら)しべひと束(たば)くべました」
我が家の「ご飯炊き」は「ガス釜」のひとときを経て「電気炊飯器」となった。
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50年前の生活の中の「三種の神器」にテレビを入れるかどうかで迷ったが、私は「電気洗濯機」を選んだ。
戦争が終わって9年目、昭和29年にNHKラジオで聴衆者も参加して討論会をしたとき、「電気洗濯機」が話題にされた。そのとこの意見のなかに圧倒的に多かったのは「愛する夫や子どもの使ったものは、心を込めて手で洗ってあげたい」であった。今は「大型で乾燥までできてしまう洗濯機を便利に使っています。しかし夫のパンツと娘たちのものを一緒に洗うのは気になるので、洗濯機への出し入れは私がしています」と50代の女性が言った。「アイロンかけのものは?」と聞いたら、そういうものはクリーニング店に出すとのこと。
若い人の声を聞きながら私が思い受かベたことは、井戸端、おしろい花、たらい、洗濯板、物干し竿等だった。「古いな」と苦笑が浮かぶ。
いつもまでも続く楽しみ
90歳を境にしたように、気軽にこれまでのように旅に出ることが少々ためらわれてきた。膝から下の部分に軽いしびれが感じられるようになったことも「旅へ」のためらいの原因の1つだが、50代の整形外科医は、「そのお年になると温かい血は足の指先までは行きませんからね」と、笑い顔で話される。
取材となると外国へでも気軽に出かける私を知っている人たちは「退屈でしょう」と「音楽会」や「食事」に誘って下さったり、感謝、感謝の暮らしである。そんな生活の中で、私は思いがけぬ「楽しみ」を発見して一人で"にこにこ"している。
私はお気に入りの2つの木の箱がある。
「縦30センチ、床26センチ、深さ13センチ」の木箱で、岩手県岩泉町の工藤澄子さんの作品だが、この箱の中には串田孫一さんの「葉書」と「封書」が「いっぱい」という形容詞を本気で使いたくなるほど、入っている。
串田さんとは40年近い長いお付き合いだったが、直接お目にかかり話したことは数えるほどで、大方が郵便局の手を煩(わずら)わす葉書と手紙で、それに午後10時半頃の電話が加わるというものだった。このところ一人でいる時間が多くなった私は「あの箱」に時々手を入れて、葉書か封書をつまみ出して読む。一枚、一通で"おしまい"のときと、続けて数枚のときもある。読んでいると、串田さんと話をしているような気分になったり、咳き込んでの話し声を聞くような思いになることもある。
こうした楽しさは、年をとったことを改めてj格することにつながってしまう。しかし、生きる日時が限られてきている今、いつ見ても楽しめる宝物を身近に、こんなに沢山持っていることは、言葉では表現できないうれしさである。

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