小野田寛郎さん死去、終戦知らずルバング島30年間任務続行 91歳 自然塾で育成に尽力 2014.1.17 MSN産経ニュース
戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。91歳だった。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140117/trd14011709400006-n1.htm
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「生きる−親が変われば子も変わる−」 小野田寛郎さんが講演 動画 YouTube
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小野田寛郎 ウィキペディア(Wikipedia)より
小野田寛郎(おのだひろお、1922年(大正11年)3月19日 - 2014年(平成26年)1月16日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍少尉で情報将校だった。陸軍中野学校二俣分校卒。太平洋戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰国を果たす。
【略歴】
和歌山県亀川村(のち海南市)に生まれる。父種次郎(県議会議員)、母タマエ(教師)。旧制海南中学校時代は県下有数の剣道選手として活躍(現在、錬士五段)。卒業後貿易会社に就職し、中国・漢口に渡り中国語を習得。
上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、1942年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され「卒業」ではなく「退校命令」を受領する。
1944年12月、遊撃戦指導の任を与えられ、横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた。
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、(赤津勇一一等兵:1949年9月逃亡1950年6月投降、島田庄一伍長:1954年5月7日射殺され戦死、小塚金七上等兵:1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。
1974年に、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独に苛まれていた小野田との接触に成功する。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れる事を了承する。3月9日にかつての上司である谷口義美元少佐から文語文による山下奉文大将名の「尚武集団作戦命令」と口達による「参謀部別班命令」で任務解除・帰国命令が下る。
こうして小野田にとっての戦争が終わり、3月12日に帰国を果たした。小野田は足跡を残す事を恐れて暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったらレーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。
小野田に対し、政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。天皇との会見も断り(自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろうと判断)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。
帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する事を決意。帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。その後、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として『祖国のため健全な日本人を育成したい』と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。自らの密林での経験を元に逞しい日本人を育成するとして、講演会や野営等を行い、高齢ながらも日本とブラジルを往復し続けていた。
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『語るには若すぎますが』 古舘謙二/編 河出書房 2003年発行
・小野田寛郎(「小野田自然塾」理事長) 6歳児に切腹を命じた母 子育ては親の覚悟次第 (一部抜粋しています)
日本の敗戦から、はや60年近くになる。しかし、私の戦後はその半分ほどにすぎない。私は、同世代の人と同じ感覚で「8月15日」をとらえられない。戦争終結から30年間、何も知らずにルバング島に残っていたから、敗戦直後の貧困も東京オリンピックも知らない。帰還した日本は高度成長の真っ最中だった。
日本帰還の道を開いてくれたのは、単身で私を捜しにやってきた鈴木紀夫君(当時24歳)だった。彼はその後、長年の夢であった「雪男」を探しにヒマラヤに出かけ、雪崩に遭って死んだ。38歳だった。ルバング島で死を覚悟していた私は、恩人である彼の倍以上も生きている。
日本に帰還した当初、戦争終結を知らせるチラシがまかれ、拡声機でも呼びかけたのになぜ出てこなかったのかと、よく聞かれた。「上官の命令がなかったからだ」とずっと答えていたが、私の子供のころからのきかん気が下地にあったかもしれない。
小学生1年のとき、私は教室で級友の手をナイフで傷つけた。ナイフを貸してくれと頼んだら断られ、「ケチンボ」とけなすと相手はナイフを振り回した。私は身を守りため、近くの机の上になった別のナイフで応戦したのだ。
学校から連絡を受けた母は激怒し、私を仏間に座らせた。私は正当防衛だったことを主張したが、母は自分の護り刀を私の目の前に起き、「人に危害を加えるような子は生かしておけません」と切腹を迫った。
6歳の子にこんな無茶な要求をする親がいるものかと驚いたが、私はついに腹を切れず、「今後2度と刃物は振り回しません」と誓わされた。
母はその後、この件についていっさい触れることはなかったが、私が22歳でフィリピンに出征するとき、言っておかねばならぬことがある、と切り出した。
「短刀を差し出したときは大博打でした。おまえのことだから、ひょっとして本当に腹を割くかもしれない。そのときは、私も死ぬつもりでした」
私は死にたくないから腹を切れなかったが、母の述懐から、わが子の将来のために、親は腹をくくらねばならぬことがあることを知った。
ルバングから戻ってきた日本はすっかり変貌していて、知らない国のようだった。どんな仕事をしてよいかわからずにいたとき、ブラジルに移住していた次兄から「牧場をやらないか」と勧められた。
ルバング30年の体験で、熱帯の風土や気候は肌で知っている。自然と牛が相手なら、人間関係のしがらみに悩むこともないだろう。そう考えて帰国から1年後、私はブラジル移住を決めた。簡素な木造の家には電気も通っていなかったが、寝る間も惜しんでブルドーザーを走らせ、ジャングルを開拓した。
それでも幸福を得た。移住した翌年の5月、私は54歳で妻、町枝(当時38歳)を迎えたのだ。彼女は自分の財産を全部処分して、ブラジルに嫁いできた。日系人やブラジル人に生け花や日本語を教え、現地に自分から溶け込んでいった。私は、長い空白の時間を経て、やっと人生の「戦友」をつかまえた。
現在、私の牧場は約1200ヘクタール、成田空港より広く、1800頭の肉牛を飼育している。牧場経営が軌道に乗ってきた1980年秋、わたしはブラジルの邦字新聞の小さな記事を読んで愕然とした。川崎市の浪人生が就寝中の両親を金属バットで殴り殺すという無残な事件が報じられていた。
「日本の子供たちは追いつめられている。このままでは日本がダメになる」と考えた私は、84年夏、日本に帰り、富士山麓で子供たちのキャンプ場を開いた。これが5年後、福島と茨城の県境に設立した「小野田自然塾」の発端になった。
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私は金属バット事件以来、家庭内暴力や構内暴力は「子供の無自覚な甘え」だと言ってきた。さらに、親も無自覚だ。ペットの犬をかわいがりように子供を育てていると、子供は増長する。成犬になってからの調教は難しいから、待て。座れ、お預けは子犬のときに教え込むしかない。叱られたことのない犬は、自分をその家の権力者だと勘違いし、気にくわないと飼い主を噛むようになる。
切腹を命じた私の母は極端だが、戦後の親は怖い存在でなくなった。怖くないから、子供は親をなめてかかる。暴力や学級崩壊は、秩序や礼節が欠落してしまった家庭の破綻の延長線上にあるのではないだろうか。
犬も人間も、しつけができていないと手に負えなくなる。怖いもの知らずがいちばん怖い。「俯仰天地に恥じず」という言葉がある。お天道さまは見てござる、といった意味だが、それもしつけ次第だ。
キャンプでは腕力や気の強さの違いがすぐわかり、強い子が弱い子をたたく心配も出てくる。私はキャンプの初めに「自分がされて嫌なことは他人にしないこと。他人をたたけば、その子は私たちスタッフにたたかれても文句言えないよね」と必ず話している。
これを体罰と非難されても構わない。教師は人にやさしくしなさいと教えるが、強くなければやさしくはできない。寒い山中で凍えている人に自分の上着をかけてやるのはやさしい行為だが、上着を脱いだ自分はさらなる寒さに絶えないといけない。「頑張れ」と言葉で励ますだけなら、見物人と同じである。
アメリカのサバイバルマニュアルに「サバイバルとは、それまでの手段や方法では生きていけなくなったときの術」という定義がある。私はジャングルで一人だったが、子供たちには、手を伸ばせば手をつないでくれるかもしれない仲間がいる。サバイバルのいちばんの術は、自立心と仲間・友達なのだ。
私は今年、80路を迎える。私の人生はすでに一回、減価償却してしまった。小学生の同級生も3分の1は戦死した。私は何かのはずみで死なずにすんだだけで、残りの人生はもうけものだと思っている。もうけは独り占めにするのでなく、子供たちに返したい。
松下幸之助さんは、かって成功の秘訣を聞かれ、「成功するまで続けること」と答えた。私が子供たちに伝えたいこともこれである。
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小野田寛郎 Google 検索
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