じじぃの「人の死にざま_622_島田・虎」

島田虎之助 - あのひと検索 SPYSEE
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島田虎之助ー剣は心なり
http://www13.ocn.ne.jp/~gojou/kenhakokoro.htm
島田虎之助 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
島田虎之助は幕末の剣客。名は直親。男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれた。直心影流島田派を名乗った。虎之助は剣術以外に儒教や禅を好んで学び、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られている。
【略歴】
文化11年(1814年)、豊前中津藩士島田市郎右衛門親房の子として生まれる。
天保9年(1838年)、江戸に出て、直心影流剣術の男谷信友の内弟子になる。剣技の上達はめざましく、一年あまりで師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。その傍ら、鈴木清兵衛の道場にも通って起倒流柔術を習った。鈴木道場で勝麟太郎(のちの勝海舟)と相弟子となったことが縁となり、後に虎之助が道場を開くと、勝は男谷の紹介で虎之助に弟子入りする。
天保14年(1843年)、東北の武者修行の後、浅草新堀に道場を開く。道場では兄の島田小太郎友親が師範代となり、同時に男谷の教えを受けた。このころ、松平内記忠敬の出入り師範として20人扶持の俸禄を得た。下関で生まれた娘、菊は松平忠敬の家臣に嫁している。
嘉永5年(1852年)9月16日、39歳の若さで病没。浅草正定寺に葬られた。墓の撰文は男谷信友による。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
島田虎之助(しまだとらのすけ (1814-1852) 39歳で死亡。(一部抜粋しています)
「本当に修行したのは、剣術ばかりだ。全体、おれの家が剣術の家系だから、おれの親父も、骨折って修行させようと思って、当時剣術の指南をして居た島田虎之助という人に就(つ)けた。この人は世間なみの撃剣家とは違うところがあって、始終『今時みながやり居る剣術は、かたばかりだ。せっかくの事に、足下(あなた)は真正(ほんとう)の剣術をやりなさい』といっていた。それからは島田の塾に寄宿して、自分で薪水の労を取って修行した」
と、海舟が『氷川清話(ひかわせいわ)』で語った幕末の剣豪島田虎之助の強さには、種々の逸話があるが、最も人に知られているのは、中里介山の『大菩薩峠』中の、雪の鶯谷で、土方歳三をはじめとする新撰組が、まちがって島田を襲撃し、片っぱしから13人まで斬って落され、目撃していた机竜之助が、ついに「これは神か!」と嘆ずる場面によってであろう。
ただし、これは文久2年暮れの話という設定になっているけれど、実際の島田虎之助は、それより10年前の嘉永5年9月16日に病死している。平生大酒家で、血を吐いて死んだといわれるから、胃潰瘍などであったかも知れない。
――それにしても、死んだ人間を10年後に登場させるとは、中里介山の胆のふとさよ。

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島田虎之助 Google 検索
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