じじぃの「人の死にざま_592_P・ファーンズワース」

フィロ・ファーンズワース - あのひと検索 SPYSEE
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Philo Farnsworth on I've Got A Secret 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=pKM4MNrB25o
The History of Television - 01 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=bW_rnc6_FaE&feature=related
テレビは誰が発明した?|電気と磁気の?(はてな)館 TDK Techno Magazine
2011年7月に日本のテレビはすべてデジタル放送に切り替わります。世界初のテレビ放送は1935年にドイツで開始されました。テレビ放送の実現には日本の技術も大きく貢献しています。この1世紀あまりにわたるテレビ技術の進化を振り返ってみました。
世界初のブラウン管テレビの実験に成功したのは日本人技術者。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の高柳健次郎でした(1926年)。
http://www.tdk.co.jp/techmag/inductive/200809/index.htm
フィロ・ファーンズワース フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
フィロ・テイラー・ファーンズワース(1906年8月19日-1971年3月11日)は、アメリカ合衆国の発明家である。世界初の完全電子式テレビの発明で知られている。特に世界初の電子式撮像管を開発し、完全電子式テレビシステムの公開実験を世界で初めて行った。
後にファーンズワースは、フューザーと呼ばれる小型核融合機器も発明した。
【来歴】
ファーンズワースは1906年8月19日、ユタ州ビーヴァーに小作人の息子として生まれた。
ファーンズワースはリグビー・ハイスクールで化学と物理学に才能を見せ、電子管のスケッチやプロトタイプを作った。彼が化学の先生ジャスティン・トルーマンに提出した図は、後の彼の電子工学の実験のパターンを証明し、ファーンズワースとRCAとの間で起きた特許紛争でファーンズワースが勝つ証拠の1つにもなった。
ファーンズワースはアイダホ州ユーコンでリューベン・ウィルキンズからバイオリンを習い、末日聖徒イエス・キリスト教会に入信した。
1923年、彼はブリガムヤング大学に入学することを決心した。
1927年9月7日、サンフランシスコの研究室で、ファーンズワースのイメージディセクタ(Image Dissector)撮像管から映像を一本の線として送り出すことに成功した。撮影した画像はガラス製のスライドであり、後方からランプで照らしていた。これは、イメージディセクタの感光性能が低いためであった。1928年までに、ファーンズワースは報道陣向けに公開実験を行うのに十分なレベルまで開発していた。公開実験で最初に映し出された映像はドルマークであった。1929年、電動発電機を排除することでさらにシステムが改良され、機械的な部分の全くないテレビシステムとなった。同年、ファーンズワースは人間の映像の転送に成功した。
一方、ウラジミール・ツヴォルキンは1923年からピッツバーグウェスティングハウス・エレクトリックで全電子式テレビシステムの開発を独自に行っていた。1930年、ツヴォルキンはRCAに雇われると、ファーンズワースの研究室を身分を偽って訪れた。ツヴォルキンはイメージディセクタの性能に感銘を受け、RCAに戻ってその複製の製作を開発チームに指示した。1931年、RCA のデヴィッド・サーノフはファーンズワースの特許を10万ドルで買い取る提案をしてきたが、ファーンズワースはこれを拒否した。同年6月、ファーンズワースはフィルコ社と契約し、妻と2人の子供と共にフィラデルフィアに移って新たな研究室を設けた。
1936年、ファーンズワースの会社は娯楽番組の実験放送を開始した。さらにペンシルベニア大学生物学者らと共同で、牛乳を電波で殺菌する方法を開発した。また、船や航空機用の霧の中でもよく見える照明ビームも発明している。
1938年、インディアナ州フォートウェインにファーンズワース・テレビ・ラジオ社が設立された。E・A・ニコラスが社長となり、ファーンズワース自身は研究部門を率いた。1939年、ファーンズワースは RCA Victor にテレビに関する特許を100万ドルで売却した。1939年4月のニューヨーク万国博覧会で電子式テレビ受像機が展示され、間もなく RCA が一般に発売を開始した。
ファーンズワース社は1951年に 国際電信電話会社 (ITT) に買収された。
テレビの開発以外にも、ファーンズワースは様々な研究を行った。世界初の電子顕微鏡、世界初の新生児特定集中治療室なども彼の発明である。レーダーの開発にも関わり、原子力の平和利用や核融合にも関わった。亡くなった時点で、ファーンズワースは米国内外に300の特許を保有していた。Scientific American 誌は、彼を同時代の中でも最も偉大な10人の数学者の1人であるとした。
1971年3月11日、ファーンズワースは肺炎で亡くなった。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【科学者・思想家】フィロ・ファーンズワース 【執筆者】ニール・ポストマン (一部抜粋しています)
もうすぐ終わろうとしている20世紀は「普通の男」の時代だったと思いたがる人々のために、今世紀最大の技術的発明のひとつをもたらしたのは「フィロ」という名の男であったことを指摘しておこう。彼は丸太小屋で生まれ、高校へは馬で通い、大卒の資格などなしにテレビの原理を思いついた(彼はその時14歳だった)。伝説によれば、彼は馬にすきを引かせてジャガイモ畑を耕しながら行ったり来たりしていた時、それと同じように電子ビームでも、まるで一行一行本を読むように絵を描くことができる、とひらめいたのだ。加えて、彼はおとなになってからの人生の大半をアメリカ有数の規模と影響力を持つ企業との法廷闘争に明け暮れたというから、実に親しみが持てるではないか。
もちろん、フィロ・テイラー・ファーンズワースのことを言っているのだ。電機業界以外のほとんどの人は彼のことを知らないだろうから、「もちろん」というのは冗談のつもりだ。しかしわれわれは、彼に対する償いをせずに今世紀を終えるべくではない。ファーンズワースは1906年ユタ州ビーバーシティ近くの村に生まれた。そこは彼の祖父がプリガム・ヤングじきじきの指揮の下に開拓したコミュニティーだった。ファーンズワースが12歳の時、一家はアイダホ州リグビーの牧場に引っ越した。一番近い高校までの4マイルの道のりを毎日馬で通わなければならなかった。彼は電気と電子に興味があり、化学教師のジャステン・トルマンを説得して特別に教えを受けたり、上級のクラスを聴講する許可を得たりしていた。いまから22惜気になるまで、偉大な科学者の伝記を読みあさっても、高校の教師に感謝している例などひとつも見つけることができないだろう。ところが、ファーンズワースは感謝したのだ。トルマンからインスピレーションと重要な知識を得たと彼は言っている。
トルマンもその賛辞のお返しをした。ずっと後になって、特許侵害事件の法廷で証言した時、それまで開いた相対性理論の説明の中でファーンズワースのものが一番明快で完結だったと証言したのだ。それが1921年の話だということに留意してほしい。ファーンズワースはその時たったの15歳だったのだ。そして彼の才能を認めたのはトルマンだけではなかった。高校にたった2年通っただけで、あとは独学による猛勉強のおかげで、ファーンズワースはプリガム・ヤング大学への入学を許可された。父親が死んだために2年生を終えたところで退学しなければならなかったが、しかし、それは彼の知性にとってたいした損失ではなかった。というのも、電子式テレビのシステムに関するファーンズワースのアイデアを理解できる者は当時地球上で幾人もいなかっただろうし、そのうちのひとりがプリガム・ヤング大学にいるなどということはありそうもなかったからだ。それを理解できた数少ないひとりが、ロシアから電気工学の博士号を持って米国に移住してきたウラジミール・ツヴォルキンだった。彼は全電子式のテレビシステムを作る夢を持ってウェスティングハウス社に就職した。しかし、彼にそれは実現できなかった。実現できたのは、ファーンズワースだった。とはいえ、すぐにというわけではなかった。
21歳になるまで、ファーンズワースもそれを実現できなかった。その時までに彼は出資者と助手を何人か、それに愛情深い妻(「ペム」)を見つけていた。ペムは研究を助けてくれていた。ファーンズワースはサンフランシスコに引っ越し、屋根裏部屋を借りて実験室にした。1927年9月7日、ファーンズワースは4角いガラスの板を黒く塗り、真ん中を引っ掻いて1本の線をつけた。ペムの弟のクリフ・ガートナーがそのスライドを別の部屋に持って行き、解像管(同じ年、すでにファーンズワースが発明していた撮像管)と、熱く輝く炭素アーク灯との間に置いた。ファーンズワース、ペム、それに出資者のひとりのジョージ・エバーソンは受像機を見ていた。すると1本のまっすぐな線の映像が現れ、クルフがスライドを90度回転させると、そても動いた――つまり、彼らは世界で初めての全電子式テレビの画像を見たのだった。
その時のファーンズワースの反応は歴史に残されるべきだ。なにしろ、われわれは学校で、サミュエル・モールスの最初の電信メッセージが「神は何を作りたもうたのか」であり、エジソンは蓄音機に「メリーさんの羊」と吹き込んだことを習う。また、ドン・アミチ――つまり、アレキサンダーグラハム・ベル――は受話器の向こうの助手を、こう言って大声で呼びつけた。「ワトソン君、すぐ来てくれ!」。では、ファーンズワースは何と叫んだのか。「ほら、できたよ」とフィロは言った。「テレビだ」。その夜、彼は実験日誌にこう書きつけた。「今回は、はっきりと線の画像を受信した」。映画のクライマックスとしてはあまり魅力的ではない。あるいはジョージ・エバーソンが別の出資者に打った電報の文句が使えるこもしれない。「こいつがものになったぞ!」
さてここから先、物語は醜い側面を見せ始める。物理学、工学、そして科学的インスピレーションの話は背景に退き、弁護士が舞台の中央を占めるようになる。実はツヴォルキンは1923年に特許申請をしており、1933年にはアイコノスコープと名づけた撮像管を開発していた。またその時までにツヴォルキンはラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ社(RCA)との間に契約を結んでおり、社長のデービッド・サーノフはテレビの製造に当たって特許使用料をファーンズワースに払うつもりなどさらさらなかった。「RCAは特許使用料を払わない。こちらが徴収する」と彼は言ったと伝えられている。
そういったわけで、テレビの発明者はだれかをめぐっての法廷闘争が繰り広げられることになった。
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ファーンズワースがなめた辛酸はこれが最後であってほしいとだれしも思うが、まだ続きがあった。彼は10年後、『ホワッツ・マイ・ライン?』というテレビ番組に謎のゲストとして出演した。ファーンズワースはドクター・Xとして紹介され、彼がどんなすごいことをしたのか、出演者が当てるという趣向だった。出演者のひとりが、使うと苦痛を生じるような機械を発明したかと彼に尋ねた。「ええ。時にはもっとも人を傷つけるかもしれませんね」とファーンズワースは答えた。
彼は、ただ生来の性格から礼儀正しく答えていたのだ。自分が発明したテレビがどのように使われているかについては、もっと情け容赦のない意見を持っていた。それはどういう意見だったのかという質問に応えて、息子のケントはこう語っている。「父は怪物のような物を作り出してしまったと感じていたようだ。この怪物によって、人生のうちの長い時間を人は無駄にしてしまう」。さらに彼はつけ加えた。「わたしが子供のころ、父はテレビについていつも言っていた。『テレビではろくなものをやっていない。うちではテレビは見ないし、ばかになりたくなかったら見ないことだ』」
そのようなわけで、ファーンズワースはテレビを発明しただけでなく、そのもっとも初期の、もっとも洞察力にとんだ批評家でもあったと結論づけて、彼の物語を終ることにしたい。

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