じじぃの「人の死にざま_582_R・クロック」

レイ・クロック - あのひと検索 SPYSEE
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McDonald's Rap with Lyrics!!! 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5jEbK4xAz2Q&feature=related
Ray Kroc and the History of McDonalds-National History Fair 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=8EEK20NqMMw
マクドナルドを抜いてサブウェイが飲食店チェーン世界最大に 2011年03月08日 GIGAZINE
ウォールストリートジャーナルによると、米証券取引委員会提出の書類によって、2010年末のサブウェイの世界店舗数が3万3749店舗、マクドナルドが3万2737店舗となり、サブウェイが世界最大の飲食店チェーンになったことが明らかになったとのこと。
http://gigazine.net/news/20110308_subway_mcdonalds/
レイ・クロック フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
レイ・クロックことレイモンド・アルバート・クロックは、アメリカ合衆国の実業家で、マクドナルドコーポレーションの創業者。マクドナルドをフランチャイズ展開し、世界最大のファーストフードチェーンに仕立て上げた。
【経歴】
チェコ系の両親のもと、イリノイ州シカゴ西郊のオークパークに生まれる。
1941年には5種類のミルクセーキを同時に作る機械「マルチミキサー」の独占販売者となり、国中を旅してまわった。1954年、カリフォルニア州サンバーナーディーノで1940年に最初のマクドナルドを開いたマクドナルド兄弟と出会う。クロックは効率化された調理システムに興味を持ち、兄弟と交渉してフランチャイズ権を獲得、1955年4月にイリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店した。
1955年3月、52歳の時にマクドナルドシステム会社を設立(1960年にマクドナルドコーポレーションに社名変更)。1961年にはマクドナルド兄弟から商権を270万ドルで買収。1965年に株式公開、1984年までには世界34か国で8300店舗を開いた。1955年から1968年までマクドナルド社長、1968年から1977年まで会長、1977年から1984年まで上級会長を務め、生涯で5億ドルの富を築いた。『タイム』誌の「Time 100」にも選出された。1974年にはプロ野球チームサンディエゴ・パドレスのオーナーに就任した。
マクドナルド】
ハンバーガーを主力商品として、世界規模で展開するファーストフードチェーンである。世界の店舗総数は3万2737店(2010年末時点)。店舗数の分類別順位において、ファーストフードを含む外食産業で世界第2位、チェーンストアではコンビニエンスストア最大手のセブン-イレブンに次ぐ世界第2位である。アメリカ合衆国本国では、「マクドナルドコーポレーション」が運営している。アメリカでは2000年代後半において、ドライブスルー店舗が売上の65%を占めるほど自動車で購入する者が重要な顧客層となっており、低価格を武器に展開している部分もあるためそれを好む者や低所得者も重要な顧客層となっているが、それ以外にもスターバックスを好むような層で構成された上流の市場を狙い、それに見合った内容を提供する展開も行っている。日本では1990年代から2000年代前半まで価格破壊・低価格路線を主軸に展開していたが行き詰ったため方針転換し、価格重視の商品、キャンペーン商品、味重視の商品、ボリューム重視の商品、高価格帯の商品など、「価格帯の拡大」と「商品バリエーションの拡大」を行ってメイン顧客層である家族連れ・子供や、その周辺ターゲットを囲うことで顧客層の幅を広げるなど幅広い客層を取り込む戦略に転換し、2000年代後半以降好調を維持している。
当初、マクドナルド兄弟が開いた店舗はハンバーガー店ではなかった。ハンバーガーもマクドナルド兄弟の発明品ではなく、それ以前からアメリカ全国にあった料理だった。にもかかわらず、その後の世界展開により広く認知されるようになったことから、マクドナルドはしばしばハンバーガーの代名詞ともされる。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
レイ・クロック (1902-1984) 81歳で死亡 【執筆者】坂井敏晃 (一部抜粋しています)
「これはいける。全米にはやらせることだって夢じゃない」
レイ・クロックは興奮した。飲食店相手のセールスマンをしてきた52歳の男の感覚に、その店の大きな可能性はがんがん響いてきた。
ロサンゼルスに近い住宅地のドライブインマクドナルド」は、評判通りのすばらしい店だった。
一人前の注文を15秒のスピードでこなしていく。それでも行列ができ、にぎわいは閉店まで続く。
1954年のことだ。店はマックとディックのマクドナルド兄弟がやっていた。映画館では、へプバーンの映画「ローマの休日」が大ヒットしていた。
当時、全米の自動車は5800万台に達し、とくに太平洋岸ではどんどん増えていた。マイカー相手のドライブインがあちこちにできた。
問題も多かった。ウエートレスが不足し、質が下がる。ウエートレス目当ての革ジャン族が店にたむろする。家族連れの足が遠のく・・・・。
マクドナルドの店は違った。セルフサービスでウエートレスがいない。子どもでも簡単に注文できる。ハンバーガー1個が15セント、よその店の半額だった。
店員はそろいの白いシャツとズボン姿で、紙の帽子をかぶっている。掃除が行き届いた駐車場。清潔さも気にいった。
その晩、宿に帰ったクロックの頭には、チェーン店を開いたら当たりそうな場所が次々と浮かんできた。
翌日、彼は気負こんで兄弟に会いに行った。
「どうです、チェーン店をいっぱい開いたら、大変な将来性がありますよ」
しかし、長い沈黙のあと、意外な反応が返ってきた。兄のマックが窓の外の丘を指さした。
「広いポーチがある大きな家が見えるだろう。私たちの家だ。夕暮れの眺めなんかすばらしい。とても平和で、気に入っている。私たちは今の生活に満足している。これ以上の面倒はごめんだ」
兄弟はチェーン店方式のビジネスに関心はなかった。クロックはねばる。
「では、その部分を私に任せてもらえませんか」
彼はチェーン店を募る代理人になることを認められた。
マクドナルド兄弟の店は、風変りなつくりだった。
全体が8角形。前半分の屋根からカウンターまで窓で、調理場が外から丸見えだ。それが人目を引いた。
ほかのドライブインとの競争に勝つために、兄弟は「安く、速く」を徹底する。
セルフサービスに改め、メニューを9種類だけにしぼった。売り上げの8割がハンバーガーだったからだ。食器は、洗う手間のいらない紙皿、紙コップにした。調理は流れ作業。新人従業員でも、短期間の訓練で、同じ味の料理を手早く出せるようにと考えた。
クロックの仕事は、そのシステムを売ることだった。地元のシカゴに戻り、加盟権販売会社「マクドナルド・システム」をつくる。のちのマクドナルド・コーポレーションだ。
加盟店は着実に増えていった。56年に12店が加わり、57年には40店、58年79店、そして60年には200店を超えた。
しかし、「契約事項をみだりに変えてはならない」とする取り決めが、ビジネスをがんじがらめにした。ジャガイモの貯蔵法は温暖地と寒冷地では違うが、そんなこと1つ変えるのも容易ではなかった。クロックと兄弟との関係は次第に冷えていく。
そんなとき、兄弟が「マクドナルド」を手放すかもしれないという情報が飛び込んだ。兄マックの健康がすぐれず、引退したがっているというのだ。クロックはのちにこう語っている。
「兄弟から自由になるチャンスだった。思い切って電話し、いくらなら売るのか聞いてみた」
返事は「270万ドル、即金で」。当時のクロックには途方もない大金だった。
しかし、4年後には代理人契約が切れる。更新できなければ、これまでの実績はゼロになってしまう。マクドナルドのチェーンはどんどん伸びている。金の卵を産むニワトリだ。ここで勝負を降りるわけにはいかない。
クロックは金融筋を駆け回り、必死で資金をかき集めた。
買収金額は、前年に兄弟が手にした加盟権収入の15倍近い。しかし、マクドナルドの発展ぶりからみれば「安い買い物」だった。
250万ドルで売り渡したことについて、ディックは後年「少しも後悔していない」と語っている。
「権利を持ち続けたろしても、税金の支払いに悩んで、胃に潰瘍をつくるぐらいが落ちだったろう。もう十分に働いた。30年以上、働きづめだった」
米国のジャーナリスト、デービッド・ハルバースタム氏は書く。
「兄弟は身のほどを知っていた。一方のクロックは、自分の未来が無限に広がっているとつねに考える男だった」
目の前の270万ドルで満足する人間と、10年先の数億ドルを想像できる人間の違いだった。
クロックは1902年、シカゴ郊外で、電信会社員の長男として生まれた。高校を中退、紙コップ会社のセールスマンになる。夜は地元のラジオ局でピアノを弾いて稼いだ。「1分でも怠けるのがいやだった」からだ。
セールスは敏腕だった。アイスクリーム売り場を回り、持ち帰り用として売り込む。これが大当たりし、会社から秘書つきの破格の待遇を受けた。
続いてミルクセーキ用のミキサーができたのに目をつける。「これを売れば紙コップも売れる」。しかし会社は認めない。「それなら」と独立してしまった。ミキサーの販売もうまくいって、毎週2回、ゴルフを楽しめる身分になる。
クロックには、大もうけできそうなものを探し当てる嗅覚があった。
マクドナルドを買い取ったクロックは。加盟店が勝手に値段やメニューを変えるのを禁じた。「どの店に入っても同じサービス」の、完璧なチェーン化を目指す。あくまでもマクドナルド兄弟のハンバーガーを基本にした。チェーンの名前を変えなかった理由もそこにあった。
のちにクロックは、ある大学での講演でこう語っている。
「すでに成功が証明されているものを使えば、第1歩から他社をリードできる。さもなければ、マクドナルド兄弟がたどってきた創業の苦労を繰り返すことになる」
調理手順を細かく指示したマニュアルをつくる。それを徹底する訓練プログラムも開発した。
肉やジャガイモなどの材料には激しい規格を決めた。「安かろう悪かろう」の評判は外食産業にとって致命的だ。1店でもそんなことになればチェーン全体に影響するのだ。
店を支配人任せにする経営者は決して成功しないことにも気づく。もっとも的確なのは、「ハンバーガーにすべてをかける夫婦者」だった。彼は慎重に加盟店を選んでいった。
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マクドナルドはいま、全米に1万2000店余り、海外109の国と地域をくわえると2万3000店を超える。97年度の総売り上げは336億ドル、日本の防衛費に匹敵する。

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