じじぃの「人の死にざま_566_ラビン」

イツハク・ラビン - あのひと検索 SPYSEE
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Brothers Einstein: Great Humanitarians -- Yitzhak Rabin 動画 YouTube
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The Story of Rabin's murder 動画 YouTube
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イツハク・ラビン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
イツハク・ラビンは、イスラエルの政治家、軍人。
【概要】
イギリス統治下のパレスチナエルサレムに生まれた。1941年には、ユダヤ民兵組織ハガナーの一部門パルマッハに参加する。第一次中東戦争においては、エルサレム防衛の指揮を取り、エジプト軍と交戦した。1962年には、イスラエル国防軍参謀総長となり、その指揮により第三次中東戦争(6日戦争)においては、エジプト、ヨルダン、シリアに勝利した。
1992年に再度、首相に就任する。アラブ側との和平を進め、1993年にオスロ合意に調印、1994年にはヨルダンとの平和条約に調印する。その功績により、ヤーセル・アラファート、シモン・ペレスと共にノーベル平和賞を受賞した。
1995年11月4日にテルアビブで催された平和集会に出席、和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに至近距離より銃撃され死亡した。志し半ばの無念の死だった。

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朝日新聞社 100人の20世紀 下 2000年発行
イツハク・ラビン (1922-1995) 73歳で死亡 【執筆者】松本仁一 (一部抜粋しています)
「ラビン首相がうるさくて、細かくて、まいりましたよ」
ダン・ショムロン退役少将はなつかしそうに笑った。
ハイジャックが起きたのは1976年6月27日。ラビン首相が強硬突入を決断したのは、発生から5日目の7月1日である。
ショムロン少将はそのとき39歳。准将で、空挺・特殊部司令官だった。今はテルアビブでコンサルタント会社の社長をしている。
犯人の要求は、世界各地で服役中のゲリラ約50人の釈放だった。しかしいったん要求をのんだら、世界中で次々に同じ事件が起きるだろう。ラビンは悩んだ末、強硬手段を取ることを決めた。
「有利な条件が1つあった。エンテベ空港はイスラエルの会社が建設しており、図面があったのです」
砂漠にエンテベ空港のセットをつくり、徹底的な演習が行われた。
特殊部隊の約200人を編成し、C130輸送機4機で侵入する。直接に突入するのは約20人の人質解放舞台。あとは管制塔の制圧、輸送機の警護、医療班などだ。
実行は7月3日深夜と決まった。ショムロン少将はいう。
「着陸から離陸まで60分の計画でした。前日の2日午前、初めて合同の演習をした。2時間かかった。その夜、作戦と同時刻で2度目の合同演習をした。57分でした」
成功する確信があった。しかし、ラビン首相は毎日電話してきた。
「いや、細かかったですね。どう着陸するのか。着陸してから突入するまで何分かかるのか。人実の犠牲の予想は何人か・・・・」
電話は、3日朝の出発前にもかかってきた。
「ダン、本当に大丈夫か、と。手順を始めから全部説明させられて、電話は1時間半もかかりました」
最大の要点は、着陸を気づかれないことだった。3日夜11時45分、英国の貨物機がエンテベ空港に着陸しようとしていた。その後ろにライトを消した輸送機4機が1列に並び、相次いで着陸した。レーダーには英国機しか映らなかった。
兵士は迷わず人質のいるターミナルビルに突入した。ヘブライ語で「伏せろ、伏せろ!」と叫ぶ。言葉が分からず立っていたゲリラ13人は、全員が射殺された。
計画では、人質の被害予測は35人だった。しかし実際は3人。兵士側の犠牲は、突入部隊指揮官のネタニヤフ中佐ただ1人だった。
「58分。大成功でした」
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事件解決で人気上昇中の77年、首相を辞任した。大使時代の米国の口座を、妻レアが閉め忘れていた。外為法違反を新聞にすっぱ抜かれたのだ。口座の中身は2000ドルちぇっと。辞める必要はない、との声が多かった。だが彼は弁明しなかった。
次にラビンの名前が出たのは84年、挙国一致内閣の国防省としてだった。占領地のパレスチナで住民の蜂起、インティファーダが始まる。テロとは違う投石の抵抗にラビンはとまどった。
エンテベ事件のときのショムロン司令官が昇進し、参謀総長になっていた。古い仲間の国防省参謀総長は毎晩、国防省のラビンの部屋で、どう対応するか相談しあった。
「ラビンがある日、おい、歴史を勉強しよう、といいだしました」
88年1月、テルアビブ大学で3人の歴史学者から特別講義を受けた。テーマは「100年間の暴動史」。聴講生は2人だけだった。
もっとも印象に残ったのは、アルジェリア戦争だった。支配者は一時的に抑え込むことはできるが、抑え続けるのは不可能だ。仏軍は撤退した。しかしイスラエルには、撤退するべき場所がない・・・・。
「ラビンは帰りの車の中で、結局は話し合いしか道はないんだな、と何度もつぶやいていました」
湾岸戦争が終わった翌年の92年、2度目の首相に就任した。中東和平会議を推進する。93年9月、米ホワイトハウスで、パレスチナ解放機構PLO)のアラファト議長と歴史的な握手をかわした。
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95年11月4日、ラビンはテルアビブ市役所前で平和集会に出席した。その帰り、右翼青年の放った銃弾が彼の命を奪った。73歳だった。

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