じじぃの「人の死にざま_557_高峰・秀子」

高峰秀子 - あのひと検索 SPYSEE
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高峰 秀子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=VTIWozpKFpQ
ある女優の生き方 斎藤 明美(Saito, Akemi) WJWN(Washington Japanese Women's Network)
■ある女優の生き方:VIEWS 2013年夏号(第34号)掲載
高峰は、神様が松山にめぐり逢わせてくれたのだと、私に言った。
そして死が二人を別つまで56年の結婚生活を全うして、2010年暮れ、高峰は逝った。86歳だった。
好きでない職業に全力を尽くして頂点に立ち、文盲になってもおかしくない環境の中で博覧強記の人となり、26冊の著作を彼女は残した。
大女優と呼ばれることより、夫に美味しい食事を作ることを幸せと感じた人だった。
夫・松山善三は、彼女にとって、たった一本のライフラインだった。
その高峰が85歳の時、私を養女にした。
血縁に苦しめられ続けた高峰が、最晩年になぜ一介の記者として知り合った私を自らの血縁にしたのか。
残る人生、私はその重みを忘れることなく生きていかねばならないと思っている。
血の繋がりというものを全否定した高峰秀子を、私は不幸だったとは思わない。哀れだったとも思わない。
ただ見事な人だった。そう思うだけである。
http://www.wjwn.org/views/article.php?NUM=V-0408
クローズアップ現代 「弱く、美しき者たちへ〜 今、世界が注目 映画監督・木下恵介 2013年1月17日 NHK
【キャスター】国谷裕子 【ゲスト】山田太一(脚本家)
二十四の瞳」で知られる映画監督・木下恵介が世界中で再評価されている。戦争・差別・貧困などに踏みにじられる人々への圧倒的な共感。今、多くの人の心をつかむ理由を探る。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3295.html
高峰秀子 ウィキペディアWikipedia)より
高峰秀子1924年3月27日 - 2010年12月28日)は、函館市出身の日本の女優、歌手、エッセイスト。愛称:デコちゃん。夫は映画監督、脚本家の松山善三。本名:松山 秀子、旧姓:平山。身長153cm。
1929年映画『母』に子役でデビュー以降、戦前・戦後を通じて日本映画界の大スターとして活躍し、1979年に女優引退後はエッセイストなどの活動をした。
【略歴】
養父に手をひかれて松竹蒲田撮影所に連れていかれ、『母』の子役オーディションの列に並ばされ選ばれる。以降デビューから1937年までの子役時代を過ごす。日本のシャーリー・テンプルと呼ばれる。共にオデコであったのでデコちゃんの愛称がつく。
あまりの人気に街のどこを歩いてもファンに追いかけられる始末だったある日、たまたま逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが長きにわたる趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な中島誠之助も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は「にんげん蚤の市」に詳しい。
松竹においては木下惠介監督作品に多く出演し、日本初のフルカラー作品となった『カルメン故郷に帰る』をはじめ、『カルメン純情す』、『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』などの作品に出演した。
二十四の瞳』の撮影で当時木下の助監督をしていた松山善三と出会い、1955年結婚する。仲人は川口松太郎三益愛子夫妻に木下惠介の3名だった
映画では年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。佐田啓二をはじめ、田村高廣仲代達矢若山富三郎天本英世宝田明らである。この傾向は木下惠介作品に著しい。すべてが円満な夫婦像ではないが、包容力と強さ優しさを備えた日本の妻の姿を提示し続けたといえる。
1979年、木下惠介監督の映画『衝動殺人 息子よ』に出演予定であった八千草薫が降板し、代役を依頼され出演する。久々の映画出演に製作発表記者会見ではこれで引退かと質問され「とっくに引退したつもりだったんですけどねえ」と答える。製作中の後日、女優引退を発表する。
引退後はエッセイストとして活動。また、映画『典子は、今』等に助監督として製作に参加するほか、2003年には映画『葉っぱのフレディ』で朗読を担当した。
2010年12月28日、肺がんにより東京都渋谷区の病院で死去。86歳没。

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文藝春秋 2010年8月号
的中した予言50 高峰秀子 【執筆者】斎藤明美(作家) (一部抜粋しています)
自分の好むと好まざるとにかかわらず、人に名前や顔を知られるようになった人間には、社会に対して責任があります
高峰秀子は寡黙な人である。86歳になった現在はさらにその傾向に拍車がかかり、1日のうちで口を開くのは数えるほどしかない。別にボケたわけではない。本人は人さまへの礼状などにやたら「老衰」「寝たきり」と書きまくっているが、台所仕事から読書まで、生活はきわめて規則正しく、見ていて感服する。
そしてひとたび口を開けば、一言で核心を突く。その胸のすくむような洞察力も変わらない。
私は高峰秀子という人と縁を得て以来20年、その言葉群をシャワーのごとく浴びているのだが、あまりに見事な言葉ばかりなので、「高峰秀子の言葉」というコラムを予定しているほどだ。
その中から1つ。
「自分の好むと好まざるとにかかわらず、人に名前や顔を知られるようになった人間には、社会に対して責任があります」
この言葉は普遍的であると同時に、あらゆる意味で高峰秀子という人間を象徴している。
高峰さんは自らの意志で女優になった人ではない。5歳の時、大人によって映画の子役に"させられた"人であり、その後、卓越した演技力で少女スターから大女優になった人だ。だがその間、彼女には職業の選択はもちろん、教育についても一切選択の自由は与えられなかった。小学校を通算して2ヵ月、文化学院にわずか1ヵ月が高峰秀子の全ての"学歴"であることからもそれがわかる。
「自分の好むと好まざるとにかかわらず」
このくだりには、学びたくても学べなかった、やめたくてもやめられなかった、血縁にがんじがらめにされた人が、好まぬ職業に腹を括(くく)ってただ黙々と挑み続けた、ある慙愧(ざんき)と決意が感じられる。
そして5歳で銀幕にその顔が映し出された時から人々の好奇と羨望と妬みと、それら様々な目に晒されてきた「名前や顔を知られるようになった人間」の、無名であった時を生涯で5年しか持たなかった人の、諦めと矜持(きょうじ)が窺える。
「社会に対して責任があります」
普段、昔話や説教の類(たぐい)は一切しない高峰さんには珍しい、やや教訓的な言葉だが、これは数年前、私が高峰さんの評伝を書きために話を聞いていた時、彼女が女優時代の心持ちを語ってくれた、その際に出た言葉だ。だから正確に言えば、「社会に対して、責任と言うのかな、そういうものがあると思うの」と、もっと控えめに語ったことを覚えている。
私は仕事柄、これまで延べ1200人に近い、いわゆる著名人と呼ばれる人にインタビューしたが、「社会に対して責任」を口にした人は1人もいなかったと記憶している。
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高峰秀子が「天才子役」としてもてはやされながら、日本映画史に名を刻む女優となり得たのは、この子役が持つ「魔の刻(とき)」を難なく切り抜けた最大の理由でもある。"自己の客体化"、それに尽きる。
一見、机上の教訓に思えるこの言葉は、高峰秀子がその決して生半(なまなか)でなかった人生という教育の場から勝ち取った真理であり、冷めた目で見据え続けた自分の信念であると、わたしには思えてならない。

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高峰秀子 Google 検索
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